シェイクスピア漫筆

  To be or not to be ...


作家の井上ひさしは芝居も書きましたが、その中に『天保十二年のシェイクスピア』という喜劇があります(初演は出口典雄演出で、1974年の西武劇場)。


(「書き下ろし新潮劇場」 新潮社, 1973年刊)

その一場面です(幕・場割りなし)。

  明るくなると王次の居室。六帖ぐらい。部屋の隅に屏風が立ててある。王次は、部屋の中を熊のようにのっしのっしと歩き廻っている。隊長が登場。

隊長 こどもにとって母親は女性などではない、なにか性を越えたもの、いうならば神のような存在です。特に、男の子にとってはそのようですな。王次はいきなり、自分の母親が神などではなく、ただの女だとしらされて、かなり衝撃を受けているようです。どうやら死をさえ考えている様子。つまり「To be, or not to be, that is the question!」という心境のようで。

次の3頁はコピーします。 
 


これ以後の翻訳をいくつか見てみますと、 

  生きてとどまるか、消えてなくなるか、それが問題だ。(松岡和子訳 平成8(1996)年)
生きるか死ぬか、それが問題だ。(野島秀勝訳 平成13(2001)年)
生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ。(河合祥一郎訳 平成15(2003)年)

シェイクスピアの翻訳でも、この独白ほど話題になるものは他にないと思われます。
この一行のみが注目され過ぎのきらいがないでもありませんが、『ハムレット』第3幕第1場、ふつう第3独白と呼ばれる独白を最後まで読んでみます。
 
To be, or not to be: that is the question:
Whether 'tis nobler in the mind to suffer
The slings and arrows of outrageous fortune,
Or to take arms against a sea of troubles,
And by opposing end them? To die: to sleep;
No more; and by a sleep to say we end
The heart-ache and the thousand natural shocks
That flesh is heir to, 'tis a consummation
Devoutly to be wish'd. To die, to sleep;
To sleep: perchance to dream: ay, there's the rub;
For in that sleep of death what dreams may come
When we have shuffled off this mortal coil,
Must give us pause: there's the respect
That makes calamity of so long life;
For who would bear the whips and scorns of time,
The oppressor's wrong, the proud man's contumely,
The pangs of despised love, the law's delay,
The insolence of office and the spurns
That patient merit of the unworthy takes,
When he himself might his quietus make
With a bare bodkin? who would fardels bear,
To grunt and sweat under a weary life,
But that the dread of something after death,
The undiscover'd country from whose bourn
No traveller returns, puzzles the will
And makes us rather bear those ills we have
Than fly to others that we know not of?
Thus conscience does make cowards of us all;
And thus the native hue of resolution
Is sicklied o'er with the pale cast of thought,
And enterprises of great pith and moment
With this regard their currents turn awry,
And lose the name of action. Soft you now!
The fair Ophelia! Nymph, in thy orisons
Be all my sins remember'd.
Hamlet, 3.1.56-89)
  このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ。
どちらがりっぱな生き方か、このまま心のうちに
暴虐な運命の矢弾をじっと耐えしのぶことか、
それとも寄せくる怒濤の苦難に敢然と立ちむかい、
闘ってそれに終止符をうつことか。死ぬ、眠る、
それだけだ。眠ることによって終止符はうてる、
心の悩みにも、肉体につきまとう
かずかずの苦しみにも。それこそ願ってもない
終わりではないか。死ぬ、眠る、
眠る、おそらくは夢を見る。そこだ、つまずくのは。
この世のわずらいからかろうじてのがれ、
永の眠りにつき、そこでどんな夢を見る?
それがあるからためらうのだ、それを思うから
苦しい人生をいつまでも長びかすのだ。
でなければだれががまんするか、世間の鞭うつ非難、
権力者の無法な行為、おごるものの侮蔑、
さげすまれた恋の痛み、裁判のひきのばし、
役人どもの横柄さ、りっぱな人物が
くだらぬやつ相手にじっとしのぷ屈辱、
このような重荷をだれががまんするか、
この世から短剣のただ一突きでのがれることができるのに。
つらい人生をうめきながら汗水流して歩むのも、
ただ死後にくるものを恐れるためだ。
死後の世界は未知の国だ、旅立ったものは一人として
もどったためしがない。それで決心がにぶるのだ、
見も知らぬあの世の苦労に飛びこむよりは、
慣れたこの世のわずらいをがまんしようと思うのだ。
このようにもの思う心がわれわれを臆病にする
このように決意のもって生まれた血の色が
分別の病み蒼ざめた塗料にぬりつぶされる、
そして、生死にかかわるほどの大事業も
そのためにいつしか進むべき道を失い、
行動をおこすにいたらず終わる――待て、
美しいオフィーリアだ。おお、森の妖精、
その祈りのなかにこの身の罪の許しも。(小田島雄志訳)
 
次にこの独白と、この場のハムレットの心境についての一文です。

むかしからだいたい日本語では「生きるか、死ぬか」になっている。別にこれといったよう代案もないから、別に異論は出さないが、実は決して To die, or not to die でもなければ、To live, or not to live でもないのである。

たしかに独白のあとを読むと、彼が死、あるいは自殺について考えていることは事実だが、ここで彼が疑惑、不決断の厳頭に立たされている問題は、決して単純に生死だけの問題ではない。

第一には亡霊そのものが果して真に父のそれか、それとも悪魔の見せるまやかしか、それもまだこの段階では決めかねている。しかもかりに真実亡父の霊であったとしたところで、復讐すべきか否かの問題もある。

さらに愛するオフィーリアの行動にまで、このところ妙に疑いの影が射している。その他彼自身の中にあるある思索型の人間と行動型の人間との矛盾もすでに感じはじめている。

いわばこの時点におけるハムレットの胸中に群がり起る問題は、死生のそれをも含めて、すべてがあれかkれかの疑い、不決断に彼をさいなもうとするものばかりである。そのあれかこれかの錯綜するすべての問題に直面した不決断の心象風景こそ、To be, or not to be であったのである。決して単に「生きるか、死ぬか」だけの問題ではない。(以下略)
 (中野好夫『シェイクスピアの面白さ』(新潮選書, 1967)224-25頁)

シェイクスピアについては夥しい数の本が書かれていますが、最も面白かった本で、戯曲の読み方等、実に多くの事を教えてくれました。この独白についてもしかりです。

最後に、新聞記事を引きます。
 


 
  レットは決断できないでいる。それが苦悩する人間の条件であるとすれば、この一行は今後も不朽の輝きをもちつづけるだろうし、日本語訳への試みもはてしなくつづけられるだろう。(小田島雄志 『毎日新聞』昭和47(1972)年2月?日)


 
 お読みいただきありがとうございました。

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