歌舞伎の舞台名所を歩く

  浅草神社
『三社祭』ほか 


 (1)

歌舞伎舞踊『三社祭』のオキです。

弥生なかばの花の雲、鐘は上野か浅草の、利生は深き宮古川、誓いの網のいにしえや、三社祭りの氏子中。
(『名作歌舞伎全集』第19巻、202頁)

また桜田治助作『三世相錦繍文章』(さんぜそうにしきぶんしょう)の大切は「三社祭の場」です。常磐津もまた賑やかな響きを聴かせます。
 
  屋台ばやしの浮き立つや、昼と夜との花見の群集(くんじゆ)、中押しわける浅草の、利生は深き宮戸川、三社祭の賑わしく。
(同上、第15巻、333頁) 

清元の詞章に「弥生」とあるのは、祭礼が現在は5月ですが、当時は3月であったこと、また「利生は深き宮古川」とは、漁師の桧前(ひのくま)浜成・竹成兄弟が、隅田川で一体の仏像を網にかけたことへの言及です。

二人の兄弟が、知識人である土師真中知(はじのおおなかとも)にこの仏像を見せますと、これは聖観世音菩薩の尊像と言います。この後、土師真中知は剃髪して僧となり、この観音像を安置して寺を開きます。後の浅草寺です。

そして没後、土師真中知、桧前浜成・竹成を神として祀ったのが三社権現で、これが浅草神社の始まりとされます。  
   
(2)

浅草神社へは地下鉄銀座線(或は東武スカイツリー線)「浅草」で下車し、馬道通りを7・8分行きます。



すると左に二天門が見えます。





この門をくぐると、向こうに浅草寺が見え、すぐ手前に浅草神社、「三社さま」の鳥居があります。



年中参拝者が絶えません。



この神社の例大祭「三社祭」は、5月18日に近い金曜日からの3日間、大変な人出で賑わいます。





先ず、鳥居の正面にある本殿に向かいます。





お詣りを済ませて、右に行きます。

中央に一之宮、その右に二之宮、左に三之宮と3基、順に土師真中知、桧前浜成、桧前竹成のお神輿が祀られています。



二日目に町内の神輿が、三日目にはこの三基のお神輿に御神霊を移して、町内を渡御します。

仲見世通りにも威勢のいい掛け声が響き渡ります。



各町会の神輿も、子供たちの乗る太鼓車に先導されて巡回します。



通りには町会のハッピ姿の大人・子供たちを多く見ます。




神社の境内にある舞殿では奉納の行事が行われます。



その予定です。



「悪鬼退治」という無言劇、



「巫女舞奉奏」




3基の神輿がそれそれ別のルートで町内を回り終えた夜、宮入りを行い、お祭りはクライマックスを迎えます。

  
(3)

『三社祭』の初演は天保3(1833)年、江戸・中村座。

外題は『弥生の花浅草祭』、最近では平成29(2017)年5月に歌舞伎座の舞台にかかりました。

この中の「三社祭」は、独立してたびたび上演されます。幕が開くと、清元の「弥生なかばの」のオキの後、華やかな三味線にのって、 

  もれぬ契いや網の目に、今日の得物も信心の、お蔭お礼に朝参り、浅草寺の観世音、網の光は夕鯵や、昼網夜阿弥に凪(「風」編に「止」)もよく、乗り込む河岸の相場にしけは、生貝、生鯛、生鰯、なまぐさばんだばさんだ。 

で始まります。 

  清元も、踊りの手も、もたつく所が一ケ所もなく、躍動感溢れる、粋で清々しい青空の晴れわった江戸の町々を見るような気持ちにさせられる(藤)
(『歌舞伎名作舞踊』演繹出版社(1991年)120頁)  

という評がありますが、最初から最後まで観客は釘づけにされます。
 
 *

『三世相錦繍文章』(通称「お園六三」)の初演は安政4(1857)年7月、江戸・中村座。

こちらは滅多に舞台にかかりませんが、歌舞伎座では昭和59(1984)年6月に、おそのを坂東玉三郎、六三郎を片岡孝夫(現15代目片岡仁左衛門)が演じました。

また平成4(1992)年9月の舞台は、中村福助・中村勘九郎(18代目中村勘三郎)の主演でした。  
   


 
最後に、浅草神社の境内には句碑がいくつかありますが、ぼくの好きな句を。

  女房もおなじ氏子や除夜詣    中村吉右衛門
  竹馬やいろはにほへとちりじりに 久保田万太郎
 
 
お読みいただきありがとうございました。

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(2018(平成30)年7月1日)
 
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