歌舞伎の舞台名所を歩く |
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『勧進帳』 | |
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歌舞伎十八番『勧進帳』、長唄は名曲中の名曲です。幕があく前、いつもわくわくして待ちます。 |
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旅の衣は鈴懸の、旅の衣は鈴懸の、露けき袖やしおるらん。 時しも頃は如月の、如月の十日の夜、月の都を立ち出でて、 これやこの、行くも帰るも別れては、知るも知らぬも逢坂の山隠す霞ぞ春はゆかしける、波路はるかに行く船の、海津の浦に着きにけり。 義経 いかに弁慶、かく行く先々に関所あって、所詮陸奥までは思いもよらず。名もなき者の手にかゝらんよりはと、覚悟はかねて極めたれど、各々の心もだし難く、弁慶が詞に従い、かく強力とは姿をかえたり。面々計らう旨ありや。 (『歌舞伎名作舞踊』(演劇出版社, 1995)74頁) |
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そして幕切れ、 |
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弁慶 先達(せんだち)、お酌に参って候。 富樫 先達、一差し御舞い候え。 弁慶 万歳(ばんぜい)ましませ、万歳ましませ巌の上、亀は棲むなり、ありうどんどう。 元より弁慶は、三搭の遊僧、舞延年の時のわか。 これなる山水の、落ちて巌に響くこそ。 これなる山水の落ちて巌に響くこそ、鳴るは滝の水、鳴るは滝の水。 鳴るは滝の水、日は照るとも、絶えずとうたり、とくとく立てや手束弓(たつかゆみ)の、心許すな関守の人々、暇(いとま)申してさらばよとて、笈(おい)を押取り肩に打ちかけ、 虎の尾を踏み、毒蛇の口を遁れたる心地して、陸奥の国へぞ下りける。 (同上、78頁) |
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ちなみに、黒澤明の『虎の尾を踏む男たち」という映画(昭和27(1952)年公開)がありますが、『勧進帳』の詞章に由来する黒澤明の「勧進帳」です。 歌舞伎は幕外の「とび六法」で花道を引っ込みますが、映画では強力が野で六法で「終」となります。 |
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(2) |
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安宅の関跡は石川県小松市にあります。 JR西日本「小松」駅で下車、バスの便もありますが、次のバスまでかなり待つのでタクシーにします。 着いてまず案内図を見ます。 関跡の方へ行くと、「安宅の関」の石碑があり、 松林の中に、三人の像が見えてきて、心躍ります。 右に富樫左衛門、 中央に弁慶、 対峙する二人。 そして強力に姿を変え、笠で顔を隠し、腰をおとしている義経。 歌舞伎の舞台を彷彿とさせてなお余りあります。 多くの浮世絵に描かれていますが、次は弁慶が杖折檻をする場面をえがいたもの。 三代歌川豊国「勧進帳」 嘉永5(1852)年 「現在もたびたび演じられる「勧進帳」は、七代目団十郎が能の「安宅」(あたか)を歌舞伎化したものである。この作品は一世一代を称した興行のおりのもの。配役は、七代目団十郎の弁慶(中央)に、八代目団十郎の富樫(右)、猿蔵(七代目四男)の義経(左ほか。)」 (「七代目団十郎と国貞、国芳」展図録(岐阜県立美術館, 平成13年)28頁より) この銅像についてです。 ここは安宅住吉神社の境内とのことで、他にも見るべきところがあります。 先ず神社に参拝します。 左手前には「宝物拝観説明について」として「当社では「安宅之関」に関する貴重な宝物の拝観並びに説明を随時行っております(無料) 御希望の方は神職・巫女またはお守り所へお申し出下さい」と記されています。 稲荷社の前には勧進帳を持つ弁慶の像が建っています。 「弁慶逆植之松」と名づけられた松があります。安宅の関を無事に通ることができたのを喜んだ弁慶が、松を逆さまに植えたことからとか。 安宅の関を詠んだ歌碑です。 文治三年は西暦1187年、この関は無事に通過しましたが、2年後に義経は奥州で衣川の戦いに敗れ、自ら命を絶つのでした。 関所跡の向こうはすぐ日本海で、青い水をたたえて広がっています。 |
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『勧進帳』の初演は天保11(1840)年、江戸・河原崎座。 |
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無款「歌舞伎狂言組十八番内勧進帳」 嘉永5(1852)年 成田山霊光館蔵 「七代目団十郎が一世一代を称して行ったのが、嘉永五年九月・河原崎座で演じられた「勧進帳」であった。(これ以前にも七代目は嘉永三年に名古屋橘町芝居で一世一代を称して興行したことがある) 初日の口上では剃髪姿で現れ、引退を予測させたが、実際にはこれ以降も江戸や上方の舞台にたびたび立った。」 (「七代目団十郎と国貞、国芳」展図録(岐阜県立美術館, 平成13年)28頁より) |
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「またかの関」と言われる位度々上演されていますが、ぼくが初めて観たのは、昭和44(1969)年11月、歌舞伎座の10代目市川海老蔵襲名披露公演。新海老蔵は、2代目尾上松緑の弁慶を相手に富樫を勤めました(義経は7代目尾上梅幸)。 (歌舞伎座プログラムより) 海老蔵は昭和60(1985)年4月、40歳で12代目市川團十郎を襲名します。3ヶ月に及ぶ襲名興行で、4月の昼の部、5月の夜の部で、今度は弁慶を演じます。 配役は、4月の富樫は17代目中村勘三郎・義経は7代目尾上梅幸、5月の富樫は2代目尾上松緑・義経は6代目中村歌右衛門。 歌舞伎座5月公演ちらし この時の出演者が裏面にあります。懐かしい役者ばかりです。思えば昭和期の最も充実していた頃の役者陣でした。 入場券も、今のとは違って、味があります。 4月と5月の『勧進帳』の幕見券です。よく観たものです。このような券も今はもうありません。 劇作家・宇野信夫は、團十郎襲名の4月の劇評(東京新聞)で、こう書いています。 |
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弁慶を危なげなく懸命に勤める。これに年齢が加われば一層立派な弁慶になろう。 精神のない形式と色彩だけの歌舞伎の多い中で、「勧進帳」は歌舞伎の美をことごとく備えている。一種のミュージカルともいえる。日本は昔からこんな立派なミュージカルを持っている。 (宇野信夫『かまわぬ見ます』(旺文社文庫, 1985)所収) |
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『勧進帳』は何度も、そして他の役者でも観ていますが、何と言っても、團十郎の2つの襲名の舞台、そしてその後、「一層立派な弁慶」を何度も観ることができたのは、本当に幸せなことと感謝しています。 |
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歌舞伎座 絵看板(部分) 鳥居清光画 |
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(2018(平成30)年8月7日) | |