歌舞伎の舞台名所を歩く

  大石主税ら切腹の地
イタリア大使館



真山青果作 『元禄忠臣蔵』に「仙石屋敷」の一篇があります。

仙石屋敷でお沙汰を待つ赤穂義士は、四つの屋敷に預けられることになります。大石内蔵助と主税は別の屋敷となり、内蔵助は我が子の最期を案じています。
 
  この時花道にかかりし主税は、父の姿を見て、また駆け戻らんとするを、堀部支う。

主税 父上。
内蔵助 主税。この上は、世上百万の眼が、我が身に集まることを忘れるなよ。
主税 はい。
内蔵助 (さすがに眼をしばたたきながら、声を潤ませ)安兵衛。
堀部 は。
内蔵助 形体(なり)は大きょうても、主税は十五歳。まさかの時に顛動(てんどう)せぬかと、親の愚痴ながら……それのみが気遣わしい。
大高 (思わず声を絞って)源吾がついておりまする。
堀部 安兵衛もおります。決して、見苦しいさまは致させません。
内蔵助 おお、二人の衆に、頼みます。
主税 父上――。主税が父上に、一言御安堵願いたかったのは、その場合の覚悟にござります。
内蔵助 死ぬというは、大事じゃぞ。心ある者も……顛動するものだ。かねての父の教えを、忘れるなよ。
主税 はい……(と涙に落ちんとせしを耐えて)父上、御免下され。(つかつかと、歩み去る)。

内蔵助、一種の微笑を浮べて主税の後を見送りたる後、静かに草履を穿(は)き、迎え人(びと)三好藤兵衛らと式体し、粛然として歩む。

 (『元禄忠臣蔵』下(岩波文庫, 1982)283-83頁)

 
『港区歴史観光ガイドブック』(港区産業振興課、平成27年3月発行)には忠臣蔵関係の史蹟も写真入りで詳しく書かれていますが、「大石主税ら切腹の地跡」には、
 
ここは大石内蔵助の子息主税ら赤穂浪士10名が預けられ、元禄16年(1703)2月4日に切腹した伊予松山藩松平家の中屋敷があった場所です。浪士が切腹した場所は土を堀りあげて池とし、その土で築山を造ったといわれています。

後に築山の上に徳富蘇峰(とくとみ そほう)の撰文による碑が建てられました。現在、イタリア大使館の敷地内に建っています(ただし、参観はできません)。

討ち入りに参加した浪士の中には、10代の青年が二人いました。大石主税と、水野家にお預けとなった矢頭右衛門七(やとう えもしち)です。右衛門七は18歳、16歳の主税は浪士中最年少でした。(21頁)

とあります。

 
(2) 

イタリア大使館の場所を見てみます。




東京メトロ南北線「麻布十番」駅で下車、高速道路を左に見て、川に沿って少し進みます。二之橋を渡って左の日向(ひゅうが)坂を上ると、やがて綱の手引坂にさしかかります。右に曲がると門が見えます。近づくとここがイタリア大使館とわかります。









   


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(2018(平成30)年12月14日)
 
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