歌舞伎の舞台名所を歩く

  大雲寺
Daiunji Temple


歌舞伎役者のお墓があることから「役者寺」と呼ばれる大雲寺は、浄土宗のお寺で本尊は阿弥陀如来坐像。二代将軍秀忠から寺領を賜って浅草の森田町(蔵前)に開山、その後本所押上に移り、さらに昭和6(1931)年に現在地に移転。

都営新宿線「瑞江」駅で下車、北口から歩いて10分ほどで着きます。




 三門


 阿吽の像ではなく、恵比須・大黒様!





 本堂


 賽銭箱の代わりに笊が!(これも初めて)


 社務所


 この「無為橋」を渡ると墓地


 三門のところにあった説明板(以下この順に見ていきます)

①市村羽左衛門累代墓(初代より17代合葬、13代は5代尾上菊五郎)


 「五代目尾上菊五郎養子 菊之助」の一行

②坂東彦三郎累代墓(3代より7代合葬)



③3代坂東彦三郎家墓




   
④初代尾上菊五郎供養碑



⑤寺島家門弟一同建立碑



⑥寺島家門弟代々墓 


   
⑦瀬川菊之丞累代墓(初代より6代合葬)
 (江戸時代の歌舞伎狂言作者、初代瀬川を合葬しています) 

 卒塔婆に中に「瀬川家」の文字 お墓参りに来られた七代目

⑧松本幸四郎累代墓(4代より6代合葬)


⑨中村勘三郎累代墓(初代より13代合葬)



⑩3代中村勘三郎墓


   
⑪福地家墓

 
   
⑫坂東彦三郎墓(初代より2代合葬)



 左が墓、右の二基は宝篋印塔
 (中央)「昭和丗八年 市村羽左衛門建立」 (右)「昭和四十五年 市村羽左衛門建立」

 墓地出入口



社務所で住職さんにいろいろと聞くと、一枚の浮世絵を見せてくださいました。



ここに描かれているのは、初代中村勘三郎が将軍から賜った「金のさい」で、江戸時代の文献にはこの大雲寺に伝わっている、と書かれているというのです。息があたらないようにマスクをし、朱傘 (傘は紫色もあり、朱傘の方が格上)を掲げていることからも、このさいが将軍からのものであるから、と

このさいのことを以前読んだことを思い出します。

  幕府の巨船「安宅丸(あたけまる)」が、伊豆から江戸に回送されたときである。(中略)当時としたら飛び抜けた大船だった。それだけに水夫(かこ)たち艪拍子が乱れがちで、船は思うように進まなかった。

すっかり困り果てた幕府の役人は、ふと思いついて勘三郎を呼び出した。役人は勘三郎に向かって、水夫たちに木遣(きやり)を教えるよう頼んだ。水夫たちの木遣訓練がひととおり終わったあと勘三郎は「安宅丸」の舳先(へさき)に立ちl、潮風に向かって朗々と木遣をうたった。水夫たちはその木遣に合わせて艪をこいだ。船はみごとに動きだし、江戸に安着した。

この話を聞いた家光は、自分の目で「安宅丸」の雄姿を確かめたいと思い、隅田川で”観艦式”を催した。その日の勘三郎は、赤のそでなし羽織に同じ色のはちまきをしめ、手には五色のさいはいをもって船上に立った。”天覧芝居”と並ぶ、勘三郎一世一代の晴れ姿である。美声はますますさえ、それに合わせて「安宅丸」は、ゆうゆうと隅田川を上った。

すっかり満足した家光は、、勘三郎の美声を「天下一」とほめ、みずから金のさいはいを、ほうびとして勘三郎に与えた。
(羽鳥昇兵著『東京歌舞伎散歩』10-11頁) 
 

【参照】歌舞伎役者
  市川團十郎
  松本幸四郎 初代の墓
  中村勘三郎

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(2019年12月28日撮影)

 
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