歌舞伎の舞台名所を歩く

  江の島 稚児ヶ淵
『桜姫東文章』


 (1)

鶴屋南北作 『桜姫東文章』(さくらひめ あずまぶんしょう)、通称「桜姫」の発端は「江の島稚児ヶ淵の場」。

幕の外では、お寺の寺侍や下男たちが登場し、長谷寺の清玄と相承院の稚児・白菊丸を探しています。

 ト禅ツト、迷子鉦になり、入れかわって、各々幕の引付と花道に入ると、時の鐘、浪の音をかぶせ、拍子木にて幕あく。

 本舞台、山続きの一面の岩組、
「江の島稚児ヶ淵」と書いた傍示杭(ぼうじぐい)、うしろ黒幕。前は一面の波布を敷き、物凄き荒海の模様。のちに下弦の月を出す仕掛け。

 ト時の鐘、合方になり、長谷寺の清玄、青坊主、着流し、所化の形(なり)。白菊丸、稚児髷(わげ)、振袖(墨染桜の模様)、裾濃(すそご)の紫の刺貫。バタバタにて白菊丸、向う揚幕から駆け出し、花道七三にておこつく。清玄追って出て、白菊の手を取るのが、唄のかゝり。

唄浄るり花は散りても根にかえる。迷う色香も、浮世の常と思い入り江の島蔭に……。

 ト両人こなしよろしくあり、七三から本舞台へ。


清玄 コレ、白菊どの、思えばよしない輪廻に迷い染め、今では世上の口の端も恥ずかしく、思い廻せば生きていられぬ。わしひとり死ねばよいことを、莟の花のこなたまで、憂目をみする身のはかなさ。かならず恨んで下さるなや。

白菊 エゝもったいない。数ならぬ身のお情けの、ご不愍(ふびん)あった嬉しさに、お師匠様のお目を掠(かす)めし身のいたずら、どうで死なねばなりませぬ。お前と一緒に未来まで、どうぞ女子(おなご)に生まれ来て、

清玄 サア、その心根が、なおいとしや。どうした前世の因縁やら、こなたをふっと思い染め、勤行(ごんぎょう)念仏も身にしまず、明暮れ焦がれて、ようように、逢う瀬嬉しきこなたの情。

白菊 いったいこうと言い交わし、未来永々変わらじと、願う心は、コレ、こゝに。

 ト懐より、香箱の蓋を出す。

清玄 オゝ、そりゃわしとても同じこと。

 ト同じく香箱の身の片しを取り出す。三日月出る。月にかざして、

 こうした仲の誓いにと、忍ぶ草と名づけし、肌身離さぬこの香箱。

            (中略)

白菊 渦巻く淵が二人の最期場。サ、清玄さま。

清玄 白菊丸。

 影もよしなや後(のち)の名も稚児ヶ淵とぞ残すらん。

白菊 南無阿弥陀仏。

 ト思入れあって波間へ身を投げる。月隠れる。浪飛沫(しぶき)たち、清玄の顔にかゝり、気をのまれて、ハッと気遅れ、うろたえ、

清玄 コレ、早まった白菊、わしももろとも。

(『名作歌舞伎全集』第9巻、147-48頁)

しかし、清玄は気おくれします。その時、寺侍・下男たちが二人の名を呼ぶ声がして、清玄はびっくりして、べったりと尻もちをつきます。

薄ドロになり、海中より心火燃え上がり、清玄は「南無阿弥陀仏」と手を合わせます。そこで柝の頭が入り、岩蔭より白鷺一羽飛び立ちます。

浅黄幕が振りかぶさり、
 
  口上役 東西。さて分けて申し上げまするは、只今仕りましたるは、江の島稚児ヶ淵の場、清玄白菊の因縁物語、当狂言の発端にござりまして、この間十七ヶ年相立ちましたる狂言にござります。このところ序幕新清水の場、十七年立ちますると申す口上、さよう。(同、149頁)
 
いかにも歌舞伎らしい幕開きです。


(2)

江の島稚児ヶ淵の場所を見て、行ってみることにします。




JR藤沢で小田急に乗り換え、終点の片瀬江の島駅で降ります。



観光案内所に寄って、江の島弁天橋へ向かいます。





木の間に富士山が見えます!



雪化粧した富士山、今日は天気に恵まれてきれいに見え、嬉しくなります。



ちなみに北斎の描いた江の島と富士山です。


葛飾北斎「富嶽三十六景 相州江の島」
(菊池貞夫著『北斎 富嶽三十六景』(保育社, 1969)49頁)

青銅の鳥居の向こうは弁財天仲見世通りで、もう人で一杯です。



老舗のお菓子屋さんが、団子を売っています。10時を過ぎていますのでおやつに、珍しい黄な粉のついた団子を1本(140円)いただきます。



江の島の地図と説明板があります。



最初の階段を上り、瑞心門を通り、



辺津宮・中津宮でお参りをして、江の島を丁度二分する境であるところから、「山二つ」と呼ばれるところへ来ます。



階段を上ったり下ったり、奥津宮にお参拝して稚児ヶ淵に向かいます。



ここの階段を下りると、



芭蕉の句碑などがたっていますが、読めません。句の説明もありません。



さらに下ると、稚児ヶ淵です。





少し前にしか行けませんが、富士山を見て、







突端から見下ろすと、稚児ヶ淵が左の方へ延びています。









以前は、この稚児ヶ淵のどこかに、白菊丸と清玄のモデルになった僧の碑があったそうです。

  稚児ヶ淵伝説によれば、建長寺の僧自休(じきゅう)に見染められて稚児白菊丸は、悩みの果て、ここから海へ身を投じ、自休もその跡を追ったという。

  「白菊としのぶの里の人とはば思い入江の島とこたえよ」
  「白菊の花のなさけの深き海にともに入江の島ぞうれしき」

且って此処に、二人が遺した歌を書いた立札は、もう無い。

 (藤巻透「芝居散歩道 稚児が淵」、『演劇界』昭和62(1987)年8月号より)


(3)
 
江の島と云えば、昔から有名な岩屋があり、浮世絵にも描かれています。


 歌川広重「相州江の島弁財天開帳詣本宮岩屋の図」
 (『歌川国芳 絵画力』府中市美術館編(講談社, 2017)217頁より)


すぐ近くですので行ってみます。



入口で入場券求めます。






入ると、与謝野晶子の歌碑が水中に見えます。



パンフレットを見て、英訳とともに写します。

  沖つ風またゝく蝋の灯に志づく散るなり江の島の洞

  Wind from the sea,
  The shimmering candle light,
  A drop spread, the cave of Enoshima.


ここで手燭を渡されます。



第一岩屋を進みます。



ここが「江島神社発祥の地で、欽明天皇13年(552年)にこの地に鎮座されました」とパンフレットにあります。



また、



というのもあります。



他にも左右にたくさんの仏像がたっています。



江の島は龍神信仰の地として知られたそうで、第二岩屋には「姿を現した龍」がいます。



スタンプ(天女?)


この洞窟は自然にできたというのですから、驚きです。




外に出ると、海がまぶしいくらい輝いています!



通路から大小の岩が見えますが、



これは亀石です。但し自然にこのようになったのではなく、石材店の店主が彫ったのだそうです。



岸壁を見上げると、



帰りは、階段のことを考えると船が良いのでしょうが、生憎先日の台風で稚児ヶ淵の船着き場がやられて工事中とのことで、歩くしかありません。

奥津宮を過ぎて、老舗のお土産やさんで今回も女夫饅頭を買って、左に折れると、階段ではなく緩やかな坂道です。

そしてここにも絶景が!




(4)

『桜姫東文章』の初演は文化14(1817)年、江戸・河原崎座。


昭和42(1967)年3月、国立劇場で4幕8場の通し狂言として初演されました(第4回歌舞伎公演)。この時は、清玄に14代目守田勘弥、白菊丸が坂東玉三郎という配役でした。

その後、平成5(1993)年11月(第182回歌舞伎公演)、平成12(2000)年11月(第221回歌舞伎公演)にも再演されています。


昭和51・52年頃でしたでしょうか、先代の市川海老蔵(後の12代目市川團十郎)・片岡孝夫(現15代目片岡仁左衛門)・坂東玉三郎が主演し、大変な人気狂言となり、歌舞伎座・新橋演舞場・南座でも上演されました。


ちなみに、平成30(2018)年1月、第307回歌舞伎公演『世界花小栗判官』(せかいのはなおぐりはんがん)に「江の島沖の場」がありました。こちらをご覧ください。


   
お読みいただきありがとうございました。

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(2018(平成30)年10月23日)
 
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