歌舞伎の舞台名所を歩く

  入鹿首塚
『妹背山婦女庭訓』

 (1)

『妹背山婦女庭訓』(いもせやま おんなていきん)、通称「妹背山」の「御殿の場」、鱶七はお三輪を切って、その訳を語ります。

彼が父たる蘇我の蝦夷(えみし)、齢(よわい)傾く頃までも、一子なきをうれい、時の博士に占わせ、白き女鹿の生血を取り、母に与えし、その験(しるし)。健やかなる男子出生、鹿の生血(せいけつ)胎内に入るを以て、入鹿と号(なづ)く。さるによってきゃつが心をとらかすには、爪黒の鹿の血汐と、疑着の相ある女の生血、これを混じて、コレコレコレ……。

 と懐中より、笛を取り出し、

笛にそゝぎかけて、調ぶる時は、……。

 実(げ)に秋鹿の妻恋う如く、自然と鹿の性質顕われ、色音を感じ正体なし。

その虚を謀って宝剣を、あやまちなく奪い返さん……。

 鎌足公の御計略。

物蔭より窺い見るに、疑着の相ある汝なれば、不便ながらも手にかけしぞ……。
(『名作歌舞伎全集』第5巻、210頁)

(芝居のあらすじは、入りくんでいるので省略します。)

そして大詰「三笠山御殿の場」、どこからともなく聞こえてきた笛の音に、入鹿は陶然となって眠ってしまいます。しばらくして目を覚ました入鹿の前に、金輪五郎と大判事が現われます。

続く「奥庭入鹿誅伐の場」の概略です。

追いつめられた入鹿は最後の抵抗を試みたが、后に八咫(やた)の鏡を突きつけられると、眼がくらんで金しばりにあったように動けなくなった。大判事と金輪が入鹿を押えつけ、鎌足が焼鎌でその首を掻切ると、首は火を吹きながら宙に飛んだ。恐ろしい執念であるが、これも后の手にする鏡の威光には勝てず、やがてどこへともなく飛んで消え失せ、再び天下は平穏をとりもどすのであった。
(国立劇場昭和58(1983)年11月歌舞伎公演プログラム、22頁)

入鹿の首は飛んだと伝説がありますが、「談山神社の『多武峯縁起絵巻』には「入鹿首飛」の説明つきで、みごとに空中を飛んでいる絵が描かれている」(同上、23頁)そうです。


(2)

飛鳥寺に行った時のことです。



「橿原神宮」駅からバスで「石舞台」へ行き、そこから歩いて岡寺、犬養万葉記念館等に寄って、飛鳥寺に着きます。



ここが日本最初のお寺であること、



本堂の前の、



「略縁起」から、ここに最古の仏像があることを知ります。



飛鳥大仏(釈迦如来像)の前に座ると、後ろでお寺の人が説明してくれます。写真を撮ってもいいとのことで、カメラにおさめます。



鐘楼の方へ行くと、入鹿の首塚があるというのです。全く思いがけないことで、「妹背山」を思い出し、嬉しくなります。



矢印の方へ行くと、田圃の手前に建っています。説明板はありません。入鹿の首が飛んできたのはこの辺りという伝説でもあるのでしょうか。



ぐるっと回って反対側からも見てみます。



首塚から見た飛鳥寺です。入鹿の話はさておき、何とも良い日本の原風景に心が洗われる思いがします。



   
(3)

『妹背山婦女庭訓』の初演は、人形浄瑠璃・歌舞伎ともに明和8(1771)年、大阪の芝居小屋ででした。

昭和44(1969)年6月、および昭和58(1983)年11月、国立劇場で上演された時に、大詰「三笠山御殿の場」と「同 奥庭入鹿誅伐の場」が上演されました。

人形浄瑠璃「妹背山」の初演の際にも、からくりで入鹿の首が宙を飛び、火焔を吐いてみせたそうですが、

  いまは万一火災にでもなったらと本火は使わず、プラスチックで首をつくり、中空の差し金を使って風を送りこみ、口につけた赤い布をヒラヒラさせるように工夫している。これでもかなりの効果があるようだ。 (同上、23頁)

 
   
  豊原国周「入鹿大臣 大谷友右衛門」(明治2(1896)年)
(渡邊晃『江戸の悪』府中市美術館編(青幻舎, 2016)107頁より)



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(2018(平成30)年8月9日)
 
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