歌舞伎の舞台名所を歩く |
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『仮名手本忠臣蔵』二段目 | |
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『仮名手本忠臣蔵』二段目「建長寺書院の場」の開幕です。 |
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平舞台、正面に大床の間。左記の肉を書いた大横軸を掛け、石台に松の活けたるを置き、左右の襖は、鳥の子に龍の丸。全て建長寺客間の体。禅の務めにて幕あく。 (引用、及び次の写真は『国立劇場歌舞伎公演記録集 仮名手本忠臣蔵 上巻』より) |
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若狭之助は、登場した本蔵に床の間の軸を見るように言います。 本蔵は「御免」と言って、近寄って軸を見上げます。 |
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若狭之助 この二句の心はいかに。 本蔵 恐れながら、高く掲ぐとは、渇仰(かつぎょう)の光に譬え、千燈万燈の燈火を照らすとも、日月の光に及ばんや。松風流水読経声とは、松に風を含みで流るる水に音あり。自ら、御経読誦(じゅ)の声と聞かん。当山宗門の大意かと存じまする。 若狭之助 予も左様に存ずるが、高の一字が頭にあって心悪(あ)し、また松風流水とある、流水に音あって、自ら御経読誦の声にも譬えんが、野に茂りたる大樹の松、おのが気侭(きまま)に枝葉茂り、下(しも)万民を照らし給う雲無き月を遮って人の嘆きと相成らば、光の邪魔のこの枝は、切るがよいか切らぬがよいか、本蔵憚りなく申して見よ。 本蔵 ハッ、なにがさて、その松、日月の光を遮る時は、その枝ことごとく切り払い、愁いをのぞき、日月の光も自ら世に輝くの道理。 若狭之助 そりゃ光を蔽うこの枝葉は、切って捨てて苦しゅうないか。 本蔵 仰せの通り。 若狭之助 しかと左様か。 ト 屹度(きっと)なって云う。 (中 略) 若狭之助 … 今日鶴ヶ岡に於て、数多(あまた)諸大名の居並ぶ中、若輩の某を侮って悪口雑言。おのれ真二ツと存ぜしも神前なり御前なり、凝(じ)っと堪えて戻りしが、もはや明日は了見ならぬ。いずれの席に居合わすとも、我が存意を申し開け、その場において斬って捨てる。必ず止めな、止めな止めな。 〔渇仰=人の徳を仰ぎ慕うこと。日月=太陽や月。御経読誦=お経を声を出して読むこと。〕 |
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それを聞いた本蔵は、お家のために一案を思いつきます。そして明日は早いご登城なので、ご帰館を進言し、若狭之助が応じると、 |
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本蔵 アイヤ、殿、暫く。 ト 本蔵立って、床の間の松の枝を扇にて打つ、枝は仕掛けにて落ちる。 それを扇の上に載せてみせる。 本蔵 まっこのごとく。 若狭之助 オゝ。 ト 柝の頭、時の太鼓にて向うへ入る。 - 幕 - |
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この場は「松切り」の場として知られます。 |
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(2) |
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二段目の舞台となる建長寺の所在地は鎌倉市山ノ内。 JR横須賀線で「北鎌倉」駅で下車して、徒歩約20分で着きます。臨済宗の禅寺で、鎌倉五山の第一位なのがわかります。 先ず境内の案内図を見ます。 境内には何人もの文学者に関する碑・墓所もあります。 総門です。山号は巨福山(こふくさん)、 「巨福」といえば、この名がついただるまを販売していました。 門を通ると参道で、左側は庭のようで、 置かれている大きな石は、きっと名のある石なのでしょう。 三門は実に立派な美しい建造物です。 左右からも見てみます。 扁額から正式には「建長興国禅寺(けんちょうこうこくぜんじ)」というのがわかります。 「あらゆる執着から解き放たれる」(!)-それができたらどれだけよいことでしょうか…。 三門を通ると、大きな木が目に飛び込んできます。「柏槇(びゃくしん)」という名の木で、名勝史跡・新日本名木百選に指定されているそうです。 幹回りは7mあり、よじれているようです。 次は仏殿、 中に入ってみます。ご本尊の地蔵菩薩が安置されています。 仏殿の後ろには、すぐ法堂(はっとう)が続いています。 ここには千手観音坐像が安置され、 天井画は小泉淳作画の雲龍図。 完成した年だったでしょうか、前に来たときは特別公開されていました(有料)。 次の建物は庫裏(宗務本院)で、中に入り 庭のようなところに出ると、立派な門が目に入ります。後で「唐門」とわかります。 反対側の大きな建物は、 「龍王殿」(文字は右から)の扁額のある方丈です。これから何かあるようで、お坊さんたちが布団を敷いたり、準備をしています。 ぐるりと回って裏へ行くと、そこは庭園です。緑の木々と芝が美しく、池に映るものを見るのも楽しいものです。 日影に、雪が溶けずに残っています。 小ぶりの松が1本、池の中島に見えます。松、いつどこで見てもいいものです。 庭をゆっくり眺めて、方丈を出て、先ほど見た門の方へ行ってみます。 その向こうには石碑が二つ。 花塚だけでなく、花も咲いています。 そして句碑も。 好日やわけても杉の空澄む日 境内は広くて緑豊かで、心が安らぎます。 どのくらい境内にいたでしょうか。ゆっくりと回って建長寺を後にします。 古都鎌倉の散策 ― 文学・歴史・芝居を連想させ、またどこを歩いても目を楽しませてくれます。 |
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石蕗(ツワブキ) |
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ある日、岡田甫著『川柳東海道』 の「建長寺」のところを読んでいると、「この寺を造った大覚禅師(1213-1278)」について、こんなことが書かれています。 |
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この宋僧が〈ケンチン汁〉の元祖だそうな……。寺の精進料理に使う野菜類の皮や尻っぽ、そういったものを捨てずにこの坊さんは油でいため、それを豆腐汁の中に入れた。結構うまい。これが有名になり、はじめは〈建長汁〉とよばれたのが、いつかケンチン汁と訛ったのだという。(上巻, 99頁) | |
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『仮名手本忠臣蔵』の二段目は「桃井館の場」(『名作歌舞伎全集』第2巻、25頁)ですが、昭和61(1986)年月10月、国立劇場の開場20周年記念公演では、最初に引用したように、「建長寺書院の場」として上演されました。 (国立劇場公演チラシ) これは7代目團十郎が場面を建長寺に直して演じた型が市川家にあり、桃井若狭之助を市川團十郎が演じたためです。 この時の舞台では、本蔵は床の間の松を扇子で落としますが、「桃井若狭助の館」の場合は、庭の松を刀で切り落とす型で演じられるようです。 国立劇場50周年記念の平成28(2016)年の公演では、本蔵(市川團蔵)は庭に一本ある松の枝を刀で切り落としました。 初めてこの場を観た昭和49年12月の国立劇場の舞台(本蔵は河豚で亡くなった8代目坂東三津五郎)でも庭の松でした。 三世歌川豊国「忠臣蔵二段目」(国立劇場絵葉書より) |
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最も上演されることの少ない場の一つ二段目「松切りの場」、こんど舞台にかかるのはいつでしょうか…。 |
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(2018(平成30)年7月12日) | |