歌舞伎の舞台名所を歩く

  金閣寺
『祇園祭礼信仰記』


 (1)

『祇園祭礼信仰記』(ぎおんさいれいしんこうき)は、四段目「北山金閣寺の場」から「金閣寺」の通称で呼ばれます。

松永大膳に桜の木に縛りつけられ絶体絶命の雪姫は、ある故事を思い出します。

雪姫 誠に思い出せし事こそあれ、わが祖父雪舟様、備中の国井の山の宝福寺にて僧となり、学問は仕給わず、とかくに絵を好み給うゆえ、師の僧これをいましめんと、堂の柱に真(まつ)此様に縛りつけて折檻せしが、終日苦しむ涙を点じ、足をもって板縁に描く鼠、縄を喰い切り助けしとや。妾(われ)も血筋を請けついで、筆は先祖におとるとも、一念はおとりはせじ。

足で木の葉をかきよせ、爪先を筆とし、墨は涙の濃薄桜(こきうすざくら)をもって一心に描くと、白鼠が顕れ出て縄を喰い切る。
 (『名作歌舞伎全集』第4巻、190頁)

「爪先鼠」と呼ばれる雪姫の見せ場です。


鳥居清久「芝居狂言浮絵 金閣寺の図」 明和(1764-71)頃 大判紅絵
神戸市立博物館蔵
(『江戸の華 歌舞伎絵展』図録(東武美術館, 1999)54頁より)


また平成23(2011)年10月に、国立劇場開場45周年記念として、曲亭馬琴=作『開巻驚奇侠客伝』よりの『開幕驚奇復讐譚』(かいまくきょうき あだうちものがたり)が五幕十場の通し狂言として上演されました(第274回歌舞伎公演)。この芝居の大詰(山城)は「北山殿金閣の場」でした。

 
(2)

あまりにも有名な金閣寺ですが、山号を北山(ほくざん)、寺号を鹿苑寺と言い、臨済宗相国寺の山外塔頭寺院であることは、あまり知られていません。

開基である室町幕府3代将軍足利義満の北山山荘を、その死後お寺としたものです。












金閣寺として知られるのは、この金箔を貼った3層の楼閣建築・舎利殿からです。


























金閣寺垣



 

(3)

『祇園祭礼信仰記』の歌舞伎としての初演は宝暦8(1758)年、京都沢村座。

『金閣寺』は一幕としてたびたび上演されてきました。


 8代目松本幸四郎の大膳、4代目中村雀右衛門の雪姫
 (『歌舞伎名作案内 1』(演劇出版社, 1979)グラビアより)


昭和59(1984)年3月の歌舞伎座。市川海老蔵(後の12代目市川團十郎)の松永大膳、片岡孝夫(現・15代目片岡仁左衛門)の此下藤吉、4代目中村雀右衛門の雪姫という若手による舞台も忘れがたいです。


平成9(1997)年11月、国立劇場では幕場の通し狂言として上演されました(第205回歌舞伎公演)。三人の人間国宝、つまり5代目中村富十郎(大膳)、(現4代目坂田藤十郎の)3代目中村鴈治郎・(藤吉)、4代目中村雀右衛門(雪姫)が顔を揃えるという豪華版でした。

『演劇界』12月号(118頁)のこの舞台の劇評に、

  富十郎の大膳の凛然と、しかも腰の据わったセリフが何といっても聞きものである。古典劇のセリフというものはこうでなくてはならない。甲の声でこの白面のタイラントの癇を、呂の声で国崩しのスケールを表す。言うところはない。(上村以和於)

とありますが、富十郎のセリフ廻しが思い出されます。

この号にはカラー3頁、評入りのグラビアが3頁載っていますが、貴重な舞台記録です。 


ごく最近では、平成30(2018)年9月、歌舞伎座130年秀山祭の昼の部。中村梅玉が此下東吉を颯爽と演じました。大膳は尾上松緑、雪姫は父の芸風を継いだ雀右衛門で、これもまた良い舞台でした。


 歌舞伎座 看板

この舞台で特筆すべきは、慶寿院尼を演じた中村福助。福助は、女形の大名跡である中村歌右衛門を7代目として襲名する筈でしたが、2013年11月に脳内出血を発症し、療養中でした。5年振りの舞台復帰で、金閣寺の幕から福助が登場すると大拍手が会場を包み、「待ってました!」「成駒屋」の掛け声が飛び交いました。


「歌舞伎らしい典型的な場面を、歌舞伎らしい典型的な役柄が、歌舞伎らしい典型的な演技で展開していく」(守屋毅・『歌舞伎名作案内』(演劇出版社, 1979)85頁)『金閣寺』は、何度観ても素晴らしいの一語に尽きます。
   


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(2019(平成31)年4月1日)
 
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