歌舞伎の舞台名所を歩く

  松風村雨堂
『須磨の写絵』


 (1)

歌舞伎舞踊『須磨の写絵』、清元の舞踊ですが、物語性の強い一幕です。

行平 わくらはに問う人あらば須磨の浦に、三歳(みとせ)この方住み馴れて、

松風 
汐汲む業(わざ)の暇浪(いとまなき)、お宮仕えの嬉しさも、

村雨 言うに言われぬわたしらが、賤しい身にて幾夜半か、

行平 結ぶ縁も行平も。

 哀れ古を思い出ずれば懐かしや、雲井に上にありし時、月の御会(ぎょかい)や花の宴、冠(かむり)装束いかめしゅう、座に連なれど上の空、よい間にそっと局待ち、彼も我らを待ち侘びてながむればいとどだに恋しき人の恋しきに謎とかこちし爪音に、つんてころりとさせもが露の、命かけたる中々も、今日ばかりとぞ田鶴(たづ)も啼く、疑いゆえに勅勘受け、今さすらいの憂き住まい。

(『歌舞伎名作舞踊』(演劇出版社, 1995)136頁)

一人の男を二人の姉妹が恋をします。
 
  さしもよしある御方と逢瀬嬉しき明暮に思いは同じ恋草を、結びおおせて葦の家(や)の仮初め枕冥加ない、御睦言に引き替えて、今の仰せは憎らしい、わたしばかりは変わらじと寄り添う村雨松風が、中を隔てゝこれ妹姉を差しおきまんがちな、行平さまはこのわしがいやいやなんぼ姉さんでも、こればっかりは面々しがちいやそりゃならぬいえわたしと常睦まじき姉妹も、色に沢立つ浜千鳥。 (同上)

 
松風・村雨を事典で引いてみます。
 
松風・村雨 まつかぜむらさめ

勅勘をうけて須磨へ流された在原行平が、その地で愛したという姉妹の海女。古く松風と村雨の伝説があったともいうが、つまびらかでなく、これを扱った文芸の嚆矢である観阿弥作の謡曲『松風』は、『古今集』に出ている行平が須磨で詠んだという歌や、『撰集抄』の行平と所の海女が歌問答をした説話などをもとに創作されたものらしい。

須磨に流された中納言行平は、土地の海女の松風、村雨となれ親しむが、やがて放免されて行平は都へ帰ってしまう、姉妹は狂わんばかりに嘆き悲しむというのがこの話の骨子。

近世の浄瑠璃や歌舞伎ではいろいろふくらませ、姉妹の多様な活躍を見せるものも多い。
 (『日本架空伝承人名事典』(平凡社, 1986)427-48頁)


(2)

この二人を祀った「松風村雨堂」が神戸市にあります。



山陽電鉄「月見山」か「須磨寺」駅が近いのですが、須磨公園を散歩してから向かうことにして、JR「須磨海浜公園」駅で下車します。



松風と村雨の須磨の海岸、松林と海、緑と青、何とも美しい風景です!



「須磨楽歩」の案内板はあちこちで見ますが、分かりやすく歩く者に親切で迷うことはありません。



須磨寺一帯にはたくさん見どころがあります。



踏切を渡ると、すぐ右に目指すお堂があります。





石碑の横面には「立ちわかれ…」、百人一首の歌が刻まれています。





裏面に「昭和十六年七月建立」とあります。

和歌も入った説明板を読んでみます。



左手にお堂が見えます。手前の松が何とも言えません、角度といい形といい。



矢印のような形の石に行書体で「松風村雨堂」を刻まれています。達筆の良い字です。



お堂の右にあるのは、



五輪塔と供養塔でしょうか。



石に一句刻まれていますが、よくわかりません。



謡曲「松風」についてです。



能の『松風』は、歌舞伎の『須磨の写絵』を始め、一連の「松風村雨物」を生んでいきます。


見終わって、須磨離宮公園の方へ足を向けます。離宮道と名付けられた通りは車道と歩道が松で区切られています。歩行者は安心して目を楽しませながら歩けるこのような通りは初めてで、嬉しくなり、神戸により親しみが湧いてきます。




(3)

松風・村雨の話は多くの画家や浮世絵師たちの創作意欲を刺激し、さまざまな名品があります。その中から気にいった二点をご覧ください。


鈴木春信「風流うたい八景 松風の秋月」 明和5(1768)年 

 本図は「風流うたい八景」と題した全8図からなる揃物のうちの1図。「八景」とは中国の伝統的な画題である「瀟湘(しょうしょう)八景」を示し、水面にかかる月影はそのうちの「洞庭秋月」を表している。さらにもうひとつの主題は謡曲「松風」である。
 平安初期の歌人・在原行平(『伊勢物語』のモデルと言われる在原業平は異母兄)は、須磨に隠棲し「わくらばに 問ふ人あらば 須磨の浦に 藻塩たれつつ わぶと答えよ」(『古今和歌集』巻十八所収)と詠んだ。このエピソードは『源氏物語』の「須磨」の巻や謡曲「松風」などへと展開した。
 本図は、須磨の浦と行平ゆかりの松を背景に、行平に愛された現地の海女の村雨と松風姉妹が振袖姿の江戸美人にやつして描かれている。松風は帆船と千鳥模様の振袖をまとい、行平の残した烏帽子と狩衣を手に佇む。村雨は秋の季語でもある朝顔があしらわれた振袖を身にまとい、松皮菱文様の帯を締めている。
 (「ボストン美術館浮世絵名品展 鈴木春信」展(あべのハルカス美術館ほか, 2017-18)図録、109頁)



酒井抱一「松風村雨図」 一幅 天明5(1785)年 細見美術館蔵

 「謡曲「松風」に因み、須磨の松風・村雨姉妹を描く。
 《松風村雨図》は浮世絵師歌川豊春に数点の先行作品が知られる。本図はそれに依ったものであるが、墨の濃淡を基調とする端正な画風や、美人の繊細な線描などに、後の抱一の優れた筆致を予期させる確かな表現が見出される。兄宗雅好みの軸を包む布がともに伝来、酒井家に長く愛蔵されていた。
 (『酒井抱一と江戸琳派の全貌』(求龍堂, 2011)23頁)


ほかにも磯田湖竜斎「松風村雨図」三幅(「ファイバーグ・コレクション展 江戸絵画の軌跡」(江戸東京博物館ほか, 2013)図録, 160頁)、歌川豊春「松風村雨図」(『別冊太陽 坂井抱一』(平凡社, 2011)26頁)などがあります。


次はご参考までに。


歌川国芳「御獄 行平塚 松風」 嘉永5(1852)年12月

 「御獄と伏見宿の間にある行平塚に因み、在原業平が須磨にながされていたおりになじみになった女性・松風を描く。役者は五代目瀬川菊之丞。」
 (「七代目団十郎と国貞、国芳」展図録(岐阜県立美術館, 平成13年)40頁)


(4)
 
『須磨の写絵』の初演は文化12(1815)年、江戸・市村座。

時々舞台にかかっていますが、特筆したい舞台は平成6(1994)年3月、歌舞伎座(夜の部)。松風・坂東玉三郎、村雨・5代目中村勘九郎(後の18代目中村勘三郎)、此兵衛・市川左團次、行平・片岡孝夫(現15代目片岡仁左衛門)という配役、そして清元は志寿太夫の出演で、願ってもない舞台でした。

 
   
お読みいただきありがとうございました。

  「歌舞伎の舞台名所を歩く」 HOMEはこちらをどうぞ。
(2018(平成30)年9月1日)
 
inserted by FC2 system