歌舞伎の舞台名所を歩く

  正岡の銅像 
目黒鬼子母神(正覚寺

『伽羅先代萩』


 (1)

奈河亀輔作『伽羅先代萩』(めいぼくせんだいはぎ)、通称「先代萩」、足利家の執権仁木弾正や妹八汐らは、お家乗っ取りを企んでいます。

「足利家奥御殿の場」、乳母政岡は、当主鶴千代が毒殺されないように、自ら飯(まま)炊きをしています。そこへ栄御前が将軍が下賜されたと称して毒入りの菓子を勧めますが、正岡の子千松が食べて危機を救います。すると陰謀を恐れた八汐は千松を嬲り殺しにします。

わが子の死に顔色ひとつ変えずに平然としている正岡を見て、栄御前は鶴千代と取り替えたと思い、陰謀をあかして、連判状を渡して去ります。一人残された正岡のくどきです。

正岡 コレ千松よう死んでくれた。出かしやった出かしやった出かしやった出かしやったのう。そなたが命捨てたゆえ、邪知深い栄御前、取り替え子と思い違い、おのれが企みをうちあけて、連判までも渡せしは、親子の者が忠心を神や仏もあわれみて、鶴千代君の御武運を守らせ給うか、チエゝ、忝けなや忝けなや忝けないわいのう。これというのもこの母が常々教えおいた事、幼な心に聞きわけて、手詰めになった毒薬をよう試みてたもたのう。でかしやったでかしやったでかしやったのう。コレ千松、そなたの命は、出羽奥州五十四郡の一家中、所存の臍(ほそ)を固めさす、まことに国の。

  礎(いしずえ)ぞやとは言うものの、可愛いやなあ、君の御為兼ねてより、
  覚悟は極めていながらも。

正岡 せめて人らしい者の手に掛かっても死ぬ事か、人もあろうに弾正が妹づれの刃にかゝり。

  なぶり殺しを現在に傍に見ている母が気は。

正岡 どのようにあろう。
(『歌舞伎オン・ステージ』(白水社, 1987)第20巻、59-60頁)


(2)
 
乳母正岡は実録では浅岡、本名は三澤初子といい、目黒鬼子母神として知られる正覚寺にお墓があり、昭和9(1934)年建立の銅像が建っています。





正覚寺(しょうかくじ)は、東京メトロ日比谷線「中目黒」駅で下車、歩いて5分ほどで着きます。







◆三沢初子之像

うちかけを着て、左手を懐剣の柄にかけ正岡の姿で立っています。







境内をぐるっと回って、




この後目黒区立美術館へ足を延ばしました。「色の博物誌 江戸の色彩を視る・読む」という珍しい展覧会を見たくて…。浮世絵も多く展示されていて、「色から見た浮世絵」といってもよい内容でした。



  
   
(3)

『伽羅先代萩』の初演は安永6(1777))年、大阪・嵐七三郎座。

ちなみに翌年には江戸・中村座で奈河亀輔ほか作『伊達競阿国戯場』(だてくらべ おくにげきじょう)が上演されましたが、これも同じく伊達騒動を下敷きにした芝居でした。

国立劇場では、昭和63(1988)年1月2に3幕5場の通し狂言として初演されました(第151回歌舞伎公演)。政岡=6代目中村歌右衛門、八汐=3代目河原崎権十郎、栄御前=7代目中村芝翫という最高の配役。

その後何度か再演され、歌舞伎座等でも度々上演されています。最近では平成29(2017)年5月、7代目尾上梅幸23回忌・17代目市村羽左衛門17回忌追善と銘打った「團菊祭」の舞台にかかりました。


菊之助の乳人正岡
歌舞伎座 2017年5月 團菊祭(『演劇界』2017年7月号より)

この後は「奥殿床下の場」そして大詰「問註所対決の場」「詰所刃傷の場」と続きます。「床下」はわずか10分程の短い幕ですが、仁木弾正、荒獅子男之助がたっぷりと歌舞伎美を見せる大好きな場面です。

   
お読みいただきありがとうございました。

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(2019年5月)
 
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