歌舞伎の舞台名所を歩く

  野崎観音
『新版歌祭文』 


 (1)

新版歌祭文(しんぱんうたざいもん)「野崎村の場」の幕切れです。

恋しい久松を追って来た油やの娘お染、それを知ったお染の母親もやってきて…。

お常 アイヤそれには及びませぬ。母がたしかに受けとりました。

コレお染、野崎参りしやったと聞いて、あまり気遣いさ、イヤ気なぐさみによかろうと、あと追うて来て何事も残らず聞いた。久作どのの深切、お光どのの志、最前からあの表で、拝んでばっかりおりましたわいの。観音様の御利生で、怪我あやまちのなかった嬉しさ、これから直ぐにお礼詣り。

  久作に梅の枝を折り取っていう、

久作 めでたい春を松竹梅と、お家も栄え蓬莱の飾物、幾久松が御奉公、大事に勤めてこの御恩、忘れぬ証(しるし)に、

  忘れぬ証をさし出せば、

お常 心あり気なこの早咲、例えて言わば雨露の、恵みをうけぬ室咲は、萎むも早し香も薄い、盛りの春を待てという二人へのよい教訓、ことさら内には口さがない者もあれば、何かに遠慮せねばならぬ。幸いわしが乗って来たあの駕籠で、コレ久松、そなたは堤、お染は舟、別れ別れに戻るのが、世間の手前、心の遠慮。
  (『名作歌舞伎全集』第7巻、252頁)
 
   
(2)


「野崎観音」こと福聚山慈眼寺(ふくじゅさんじげんじ)は曹洞宗のお寺で、大阪府大東市野崎にあります。



JR大阪環状線「京橋」駅から、JR片町線(学研都市線)に乗って15分ほどで「野崎」駅に着きます。駅を出ると朱色の橋があるのも、これからお寺に向かう者には嬉しい気がします。



橋を渡り、左へ曲がると、右に長い参道があります。毎年5月1日から8日の「野崎参り」には露店が並び、いろいろなイヴェントが催され大変な盛況とのことです。

「野崎小唄」や落語の「野崎詣り」を思い出しながら進みます。

駅からゆっくり10分ほど歩くと、石碑の文字から長い間念願だった野崎観音に着いた嬉しさがこみあげてきます。



階段を上ります。



まだ続きます。



そして山門、



奥を見ると、境内のほぼ全体がわかります。



山門を入ってすぐ左に神社があります。



石の鳥居の後ろに石灯籠が二つほぼ真っすぐに並んでいるのは珍しいかな、などと思いますが、どうでしょうか…。



石段を下りて、手水舎で手を洗います。



本堂は階段を上った上にあります。





ご本尊は十一面観世音菩薩、手を合わせます。



扁額が金色に輝いています。



右上にご詠歌、



左には奉納物。



なで仏のびんずるそんじゃ像がありますので、体の何か所かを撫でてお願いします。



本堂右の建物には十六羅漢像が並んで、花が供えられています。



右へ行くと「江口の君堂」があり、



説明板を読みますが、文字は一部見えません。



絵馬の図柄は江口の君が観音堂でお祈りをしている姿です。



近くには役行者の像もあります。




さらに歩いて行くと、「お染久松之塚」とあります!



緩やかな傾斜を下ると、墓地への階段の手前に見えます。







浄瑠璃の一節も刻まれています。七五調の名文です。



このような石碑があるとは思わず、嬉しくなります。


ゆっくり目に刻んで、ここを後にします。



本堂を見上げるところを通って、



町を一望できるところがあります。でも残念ながら舞台に出る土手は見当たりません。



駅へ戻る途中、足もとを見ると、舟と土手に分かれて行くお染と久松を描いたマンホールのふた(?)に気が付きます。いかにも「野崎」らしく、この町と『新版歌祭文』の話は、切っても切り離せないことがわかります。




(3)

  
『新版歌祭文』の初演は安永9(1780)年、大阪・竹本座。歌舞伎化されての初演は天明5(1785)、大阪・中村粂太郎座。


心に残る舞台が二つあります。

一つは昭和48(1973)年10月の歌舞伎座、7代目尾上菊五郎襲名興行の夜の部の最初の一本でした。お染に4代目中村雀右衛門、久松に守田勘弥、お光に尾上梅幸、お常に尾上多賀之丞、そして久作が8代目坂東三津五郎という配役で、泣かされました…。


もう一つは国立劇場の昭和54(1979)年1月、2幕3場の通し狂言としての上演。お染と久松は坂東玉三郎と沢村藤十郎、お光が中村勘九郎(後の18代目勘三郎)、油屋の後家が片岡我童(没後14代目片岡仁左衛門を追贈される)、久作は17代目中村勘三郎で、こちらも名舞台でした!

野崎村土手の場の幕切れ、駕籠かきは中村四郎五郎と中村助五郎(2代目中村源左衛門)、中村屋の名脇役で二人とも大好きでした。仮花道の途中での演技、三味線に乗って日本手拭で背中を拭き、手拭をくるくる回して鉢巻にしておでこにするところなど、悲劇の中の comic relief とも云えるシーンで心に刻まれました。

「観客を呼ぶのは主役で、納得させるのは脇役」と何かで読んだ記憶がありますが、名脇役の演技が芝居をコクのあるものにすると云って間違いありません(中村屋の脇役には芝居巧者が何人もいて、掛け声がかかったこともありますが、端役に掛け声がかかるのは極めて稀と思います)。


昭和51(1976)年9月、歌舞伎座で沢村宗十郎と沢村藤十郎の襲名でも上演されました。この時不思議に思ったのは、両花道が使われなかったことでした。理由は分かりませんが、出演する役者によるのでしょうか…。もしそうだとするなら、おかしな話と言わなくてはなりません。

観客も「野崎村」も、幕切れは両花道を使って上演されるのを望んでいる筈です。


最後に…。

歌舞伎の舞台面は、いつも一幅の絵画を見るようですが、この芝居の幕切れの場面もまた作者は周到な準備をしています。

  『野崎村』の幕切れの梅も、同様、お光の心を映して美しい。婚礼を目の前に、愛しい久松をあきらめ、久松とお染は舟と駕籠で去って行く。それを見送る傍らに咲く梅である。菜の花の咲く梅である。菜の花の咲く頃の梅というのは、かなり遅咲である。ふつうは桃を考えるだろうが、梅を持って来たあたりに、江戸人の梅への思いが感じ取れる。とくに、その枝に、糸の切れた凧の引っかかっている演出の、心理的に語ろうとしているものを、梅は一層深めて呉れる。
  (野口達二『歌舞伎はるあき』(本阿弥書店, 1987)32頁) 


ちなみに、国立劇場の2階のロビーには、日本画の巨匠による名画が常設されていますが、その中に鏑木清方の「野崎村」(大正3年作)があります。母に手を引かれて野崎村に向かうお染、大正2年9月本郷座上演の舞台から、松蔦のお染、その母秀調を描いたものとの添書があります。

国立劇場に行くたびに、他の絵画とともに見るのを楽しみにしています。


「日本画近代化の旗手たち」展・入場券を飾る清方の「野崎村」
(1992年, 東京日本橋・高島屋)



歌舞伎座絵看板(2019年4月)鳥居清光画



お読みいただきありがとうございました。

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(2018(平成30)年6月24日)
 
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