歌舞伎の舞台名所を歩く

  「お軽勘平戸塚山中道行の場」碑
『仮名手本忠臣蔵』(落人)


 (1)

『仮名手本忠臣蔵』の原作にはありませんが、後から書き加えられた『道行旅路の花聟』(みちゆき たびじのはなむこ)通称「落人」、清元の名曲です。

歌詞は「梅川忠兵衛」の道行を、花四天がからむ趣向は「吉野山」を模倣してできました。

主君が大事の時に逢瀬を楽しんでいたお軽と勘平、勘平は切腹しようとしますが、お軽が必死に止めてひとまず私の実家へ、と二人は山科を目指します。

落人の 見るかや野辺に若草の 芒(すすき)尾花は無けれども 世を忍び路の旅衣 着つゝ馴れにし振袖も 何処やら知れる人目をば 隠せど色香梅の花 散りても跡の花の中 何時か故郷へ 帰る雁 まだはな寒き春風に 柳の都後に見て 気も戸塚はと吉田橋 墨絵の筆に夜の富士 余所(よそ)目にそれと影暗き鳥の塒(ねぐら)に辿り来る

勘平 鎌倉を出てようようと、此処は戸塚の山中、石高道で足は痛みはせぬかや。

お軽 何のまアそれよりは、まだ行先が思われて。

勘平 そうであろう、昼は人目を憚(はばか)る故。

お軽 
幸いこゝの松蔭で、

勘平 暫しがうちの足休め、

お軽 ほんにそれがよいわなア。

 (『歌舞伎名作舞踊』(演劇出版社, 1995)52頁)



歌川国芳「一口浄瑠璃 早野勘平」
 「右上の浄瑠璃は「いろで逢しもきのう今日、かたい屋敷の御奉公、あの奥様のお使いが、二人が塩谷の御家来で、その悪縁が……」、道行旅路の花婿の一節。その左は言うまでもなくお軽で、勘平は八代目の市川團十郎と言われている」
(『歌川国芳 絵画力』府中市美術館編(講談社, 2017)154頁より)



歌川豊国「仮名手本忠臣蔵(落人)」 安政4(1857)年10月 守田座 (『東海道芸能尽し』(国立劇場, 2001)より)
 
(2)

詞章にある「戸塚の山中」だったであろう所に、お軽勘平の碑があります。




JR東海道線「戸塚」駅で下車、藤沢行きの神奈中バスに乗り、2つ目のバス停「西横浜国際総合病院前」で降ります。するとすぐ左に石垣で囲まれた一角があり、石碑が目に入ります。



正面から見ます。







左手には由来が刻まれた石碑がたちます。



   
(3)
 
『道行旅路の花聟』の初演は天保4(1833)年3月、江戸・河原崎座。

通しで上演される時は勿論ですが、一幕の舞踊としてもたびたび舞台にかかる人気作です。
   
尾上菊五郎と18代目中村勘三郎はお軽と勘平のどちらも演じていますが、市川團十郎と坂東玉三郎の舞台が真っ先に思い浮かびます。他に何組のペアで観たでしょうか…

富士山が見え、満開の桜と菜の花が咲き乱れる舞台面の美しさ、最後に登場する伴内と花四天の滑稽さ 二人の美しい振りと相まって、悲劇性が支配する中、唯一といってよい明るい一幕と云えます。


最後に、花四天で思い出した一文を引用します。
 
  花四天

花の枝を持った群衆は、たてわくの模様の四天という衣装を着ているので、花四天と俗称される。ハナシテンではなく、ハナヨテンというのは、死に通じる「シ」の音を避けたのである。

花四天というのは、大部屋の俳優が扮し、「忠臣蔵」の道行では勘平に、「千本櫻」の道行では忠信にからんで、主人公の前で、とんぼを切ったり、両脚をひろげて倒れたりして見せる。勘平と忠信を強く見せるための役割である。

ぼくは花四天が、何だか好きでたまらない。あれは、一人一人、みんな善良な人間にちがいないという確信がある。

もともと、あんな格好をした人物が現実にいたはずはないのだが、舞台で見なれているために、花四天のあの姿の若者が、どこかにいたような気がしている。鷺坂伴内あるいは早見の藤太の家来のひとりが、道にはぐれて、木の根に寄っかかって、花の枝を抱きながら居ねむりをしている、そんな構図まで、頭の中に浮かんでくるのである。(以下略)

 (戸板康二『舞台歳時記』(東京美術, 1967)82頁)



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(2018(平成30)年9月29日)
 
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