歌舞伎の舞台名所を歩く

  逆櫓の松
ひらかな盛衰記
   
   
(1)
   
文耕堂・三好松洛・竹田小出雲らの合作『ひらかな盛衰記』の三段目「松右衛門内の場」、梶原に呼び出されて松右衛門は、戻ってきて、その時の様子を権四郎に話します。

襖がさっと開くと梶原様がまえへ出て、その重々しさ、物言いの堅苦しさ、船頭松右衛門とは汝(おのれ)よな、そのするどい目で白眼(ねめ)つえ、まあ、親父さま、その時の目の大きさ、こんなでごんした。このたび逆櫓の大事、おろそかに聞き受け難し。おのれ舟に逆櫓を立てゝの軍(いくさ)調練したる事やあるか、それ聞かんと問いかけられ、このたび親仁さまに習うて、逆櫓という事初めて知ったこの松右衛門、返答に困りましたが、分別致し、ハッ、御意ではござれども、売船の船頭風情、軍さというものは夢に見た事もござらぬ、逆櫓の事はわれら家に伝え、よく存じて罷りありますなどと申して、間に合わせをいったれば、ムゝさもありなん。しからば汝覚えてある船頭をかたらい、今宵密かに逆櫓を立て、舟の駆引き手練して、その上知らせよ、事成就せば御大将の御召し舟の船頭は汝たるべしと直のお詞。
(『名作歌舞伎全集』第3巻、277頁)

「逆艪」とは何か?「船の戦の戦法」として、この方法を提案した梶原景時の言葉を聞いてみます。
百二十句本第101句「屋島」からです。

  渡辺に、大名、小名寄りあひて、「さて、船いくさの様は何とあるべき」と評定あり。梶原申しけるは、「船に逆櫓をたて候はばや」と申せば、判官、「逆櫓とはいかなるものにて候ふやらん」とのたまへば、梶原、「さん候。馬は、駆けんと思へば駆け、引かんと思へば弓手へも、馬手へも、まはしやすきものにて候。船は、きつと押しなほすことたやすからぬものにて候へば、艫にも、舳にも、梶をたてて、左右に櫓たて並べて、艫へも、舳へも、押させばや」とぞ申しける。判官殿、「軍のならひは、一引きも引かじと約束したるだにも、あはひあしければ敵にうしろを見するならひあり。かねてより逃げ支度をしては、なじかはよかるべき。人の船には逆櫓もたてよ、かへさま櫓もたてよ。義経が船にはたてべからず」とぞのたまひける。梶原、「あまりに大将軍の、駆くべきところ、引くべきところを知らせ給はぬは、『猪のしし武者』と申して、わろきことにて候ふものを」と申せば、「よしよし義経は、猪のしし、鹿のししは知らず。敵をばただひた攻めに攻めて勝ちたぞ心地好うはおぼゆる」とのたまへば、梶原、「天性、この殿につきて軍せじ」とぞつぶやぎける。
(『新潮日本古典集成 平家物語』下、213-214頁) 
 
【現代語訳(要点のみ)】
馬は駆けようと思えば、左へでも右へでも自由に取り回せましょう。しかし、船となりますと、ぐいっと方向転換することが難儀でございます。されば、艫(とも)と舳先(へさき)と、両方に櫓(ろ)立て、舵も双方に設けておきますならば、前でも後ろでも、たやすく押せましょう。」
(林望『謹訳 平家物語』[四]119-120頁)
   
   
(2)
 
大阪の地図を見ていると、「逆櫓の松」の文字が目に入ります。



JR東西線新福島駅で、電車を降りると、プラットフォームの壁の何か所かに松が描かれていて、「源平合戦ゆかりの松 逆艪の松」の文字もあり、うれしくなります。
 
すぐに福島天満宮を過ぎて、
   
玉江橋の一本手前の通りを右に曲がると、まもなくビルの前の囲いの中に何か見えます。「逆櫓の松址」の碑と、左にあるのは説明板です。 
 
   

『平家物語』の逆櫓に因んで名づけられた「逆櫓の松」は、大阪福島区の玉江橋の近く、この辺りにあったとされます。

歌舞伎の「福嶋逆艪松の場」でも、舞台の背景には大きな松が描かれます。
梶原の三人の船頭がやってきて、逆櫓の稽古に入ります。ここは、子どもが松右衛門と船頭に扮して、遠見で見せます。下座の、
名にしおう、うしお漲(みなぎ)る福嶋の、沖に漂う捨小舟、波に逆櫓の舟子ども。
   
で、幕が切って落とされます。
三人    松右衛門どの松右衛門どの、舟で妻子を養いながら、終に逆櫓をいう事を、
松右衛門 オゝ、しらぬはずしらぬはず。何事もおれ次第。教えてやろう。船と陸(くが)とは
       また格別。コレ、ともの艪を、こう立てゝ、これを逆櫓をいうわいやい。

惣じて陸の働きは、敵も味方も馬上の働き、駆けんと思えば駆け、引かんと思えば引く事も
自由げんに見ゆれども、船という物はまた格別。知っての通り汐につれ、

風に誘われ、艪拍子立てゝ押す時は、おもかじ、

三人 オゝイ。
                         (中 略)
松右衛門 サア、その憂き目を見まいためのこの逆櫓、サア、艪を押せ押せ。
三人    おっと合点じゃ、ヤッシッシヤッシッシ、ヤシイヤシイ。
 (同上、286-87頁)
すると、三人はすきをうかがい、櫂で松右衛門に打ちかかります。

松右衛門、実は木曽義仲の遺臣樋口次郎兼光で、逆櫓にことよせて、主人の仇義経を討とうしていることを、梶原は見通していたのです。

最後に樋口は、主人の一子駒若丸助けるために、情けある重忠の縄にかかるのでした。重忠の台詞です。
木曽殿の御内にて四天王の随一と呼ばれ、亡君の仇を報わんため、権四郎が聟となって弓矢にまさる艪櫂(ろかい)を取って、大将の舟をくつがえさんとの謀事。恐ろしゝ頼もしゝ。
                        (中略)
木曽殿叛逆ならざる事、書置きに現われ主人に科なき樋口の次郎、全く恥を与うるに非ず忠臣武勇を惜しみ給う、大将義経の心を察し、重忠が縄かくる。
 (同上、290頁)

   
   
 (3)
   
逆櫓で有名な『ひらかな盛衰記』の初演は、人形浄瑠璃として元文4(1739)年、大阪・竹本座。歌舞伎としての初演は翌年の大阪・角の芝居でした。
   
逆櫓の場が一幕として時々上演されてきましたが、昭和54 (1979) 年12月には国立劇場で三幕八場の通し狂言として上演されました。松右衛門(実は樋口次郎兼光)に十七代目中村勘三郎、権四郎に三代目河原崎権十郎、畠山庄司重忠は初代尾上辰之助という配役でした。

その公演のポスターです。
(『歌舞伎ポスター集-国立劇場開場25周年記念-』(日本芸術文化振興会, 1991年)より)
   
この場は英雄樋口の物語と云ってよく、「権四郎、頭が高い」と本性を現わし、睨みおろす見得、そして、事が露見した後の「逆櫓の松の物見」、船頭たちとの立ち回り、と見所が続きます。

特に櫓を手にした船頭たちが、中央の樋口を囲むようにして、舟の形に決まる見得は、一瞬ですが、何度見ても素晴らしいの一語に尽きます。歌舞伎の様式美・絵画美、この一瞬にあり、と言えます。

十七代目中村勘三郎の他は、九代目松本幸四郎(現、松本白鸚)、当代の中村吉右衛門でも観ました。今度はいつ誰の松右衛門でこの芝居を観れるのか、楽しみです。 
   
 
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( 2018(平成30)年3月23日)
 
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