歌舞伎の舞台名所を歩く |
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『妹背山婦女庭訓』 | |
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近松半二ほか作『妹背山婦女庭訓』(いもせやま おんなていきん)、通称「妹背山」の二幕目は「猿沢の池の場」です。 |
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本舞台、向う一面の山の遠見、下手へかけて猿沢池を見せ手前下手寄りに柳の木一本立つ。すべて奈良猿沢の池の体。上手よりに御所車。その左右に官女…。 水音にて幕開く。 阿茶 申し皆さん、帝さま御寵愛の采女のお局さま、ひそかに御所を抜け出でて、この猿沢の池に身を投げ空しうおなりなされたと、御傳役の久我之助清舟が奏聞。 阿茶 それというのも采女さまの御父君、内大臣鎌足さま、あの憎体な入鹿大臣が讒言にて御前を退き行方知れずおなりなされたを悲しんでの入水とか。 阿茶 それじゃによって、帝さま、せめては采女さまの亡き跡を弔い給はんとの今日の御幸も、入鹿さまに知れぬよう仕丁舎人も召し連れずわれわれどもが御忍びの御供。 (中略) 阿茶 帝さまへ申し上げます。猿沢の池に到着いたしてござりまする。 天智帝 ナニこの辺りが、猿沢の池なるか。 殊に盲目(めしい)の君なれば、哀れも勝る御姿。 ト、車の内より天智帝、着付、指貫、小忌衣にて出る。 伊奈 ハァこれこそは采女さま入水の跡、猿沢の池にて候。 申上ぐれば今更に御落涙こそ限りなし。 ト天智帝、池に向って手を合わせこなしあって、 天智帝 誠に思ひ廻せば去年の秋、民の営みを哀れみて『我が衣手は露に濡れつつ』と詠ぜしとき、傍らにて筆を取りし采女がはや、この世に亡き人となりしも我が衣手の涙にぬるると云ふはしならん。せめては采女に手向けの一首。『わぎも子が寝くだれ髪を猿沢の池の玉藻と見るぞ悲しき』 阿茶 ハゝア有難き君の御製。 伊奈 采女さまの未来のためには千部万部のお経より百倍勝る御手向。 (『国立劇場第65回(1974年4月)歌舞伎公演 上演台本』 13-14頁) |
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猿沢池は奈良・興福寺の南にあります。 近鉄奈良駅からアーケードの商店街を通って、突き当りを左に行きます。すると「奈良県里程元標」の文字が目に入ります。 上に見えるのは手力雄社 このすぐ右が采女神社で、猿沢池と切っても切り離せません。歌舞伎作者はここに伝わる伝説を、巧みに芝居の中に取り入れたことがわかります。 この神社のすぐ前に猿沢池はあります。興福寺が見える右から回ってみます。「猿沢池こんなお話し」がいくつかありますが、最初はこの神社に関わる「采女まつり」についてです。 興福寺五重搭 左は南円堂、右奥は中金堂(300年ぶりに再建、平成30(2018)年に落慶を迎えた) 白い建物の右が采女神社 九重塔の右にたつ石碑「きぬかけ柳」 |
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(2018年11月16日撮影) |
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采女まつりと云えば、お祭りの行列に一度行き合わせたことがあります。その時に撮った写真の一部です。 |
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(2015年9月27日撮影) |
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『妹背山婦女庭訓』の初演は明和8(1771)年5月、大坂・竹本座。同年の8月には早くも歌舞伎化されて、大阪・中の芝居で初演をむかえました。 国立劇場の初演は昭和44(1969)年6月、「猿沢の池の場」が出たのは昭和49(1974)年4月(第65回歌舞伎公演)で、天智帝を中村東蔵が演じました。 平成8(1996)年11月、国立劇場開場30周年記念公演(第200回歌舞伎公演)でもこの場は再演されています。この時の天智帝は坂東秀調でした。 |
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(2018(平成30)年12月4日) |
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