歌舞伎の舞台名所を歩く

  千本松原
『伊賀越道中双六』


 (1)

『伊賀越道中双六』(いがごえどうちゅうすごろく)、通称「伊賀越」の「沼津平作内の場」に続く「同千本松原の場」です。

急いで出立した重兵衛を追いかけた平作は、千本松原で追いつきます。

そして娘の許嫁渡辺志津馬の敵・河合又五郎の居場所を聞きます。しかし恩のある重兵衛は教えるわけにいきません。

最後の手段、平作は腹を切って命と引きかえに頼むのでした。すると重兵衛は、お米と池添孫八が藪の蔭にいるのを知っていて、二人に聞こえるように、

重兵衛 どこの誰が聞いていまいものでもなけれど、重兵衛が口からいうは、死んで行くこなた様への餞別、今際(いまわ)の耳によう聞かっしゃれ。股五郎が落ち行く先は九州相良、道中筋は参州の、吉田で逢うたと人の噂人の噂。

平作 エゝ、かたじけないかたじけない。アレ聞いたか、……イヤイヤ誰もない誰もない 聞いたはこの親父一人、アゝ、それで成仏しますわいの、しますわいの。名僧知識の引導より、前生(さきしょう)の我が子が介抱受け、思い残す事はない。早う苦痛を留めて下され。

 トこのうち重兵衛平作よろしくあって、
 親子一世(いっせ)の逢い初めの逢い納め、

兵衛 親父さま。
平作 兄よ、……顔が見たい見たい。顔が見たいわいやい。
重兵衛 南無阿弥陀仏々々。

 唄うる十念重兵衛が、こたえ兼ねたる悲歎の涙、始終窺う池添が、小石拾うて白刃の金、合わす火影は親子の名残り、哀れ果敢(はか)なく。

 トこのうちお米孫八木蔭より出て、お米を平作の傍らへ突きやる。孫八刃先にて石を当て石火を出す。平作落ち入る。重兵衛手を合わす。皆々引っ張り三重にて、
                                  幕
(『名作歌舞伎全集』第5巻、315-16頁)

平作が臨終の間際で、初めて親子が名のります。孫八が石火を打つのは、一瞬明るくして親子が顔を見れるようにするためですが、哀切きわまる幕切れです。

この幕切れで、重兵衛は平作の頭の上に菅笠をさしかけるのが、一つの形に なっています。

このことについて、人間国宝で博学で知られた8代目坂東三津五郎はこう書いています。

  そこになるといつも、バラバラン、バランバランと雨の音。雨が降っているから傘をさしかけるのだと私たちは思っていた。昔文楽に吉田栄三という名人の人形使いがいた。義太夫の文句には雨の文句はなく、それまで虫が鳴いている。

「どうしてあそこで雨が降るんですか」
吉田栄三さんに私は聞いた。
「そんなところで雨は降りません」
「じゃあ、あのすげ笠をさしかけるのはどういうわけですか」
「あんたなあ、他人の土左衛門が流れついても、こもかけますよ。まして自分の親父が死ぬんだよ。夜露にあてまいと思って―」

はあ、なるほど人情が深いものだな。

「だけど、いまどうして雨の音が入ってきているんですか」
「あれは白井さんという、松竹の会長、白井さんの注文で雨の音を入れました。雨がふっててさしかけるんだったら、情が移ってませんがな。夜露にあてまいというところに情があるんです」
「じゃあ、雨の音よしたらいいじゃありませんか」
「それはそうはいきません。松竹のお仕打ちさんがやったことは、私らはいけないと言えません」

昔の芸人気質で、悪いと知ってても、お仕打ちさん、つまり社長の白井さんが注文したものを、私たちはいけないとは言えない。それで明治の末期から、雨の音の聞かせることになったのだ。
 (坂東三津五郎『東海道歌舞伎話』(日本交通公社, 1972)59-61頁)


  広重「沼津」 


(2)

千本松原へはJR東海道線「沼津」駅で下車、バスの便もありますが(「千本入口」または「千本浜公園」で下車)、地図を見て、市内を見ながら歩くことにします。30分ほどでしたでしょうか。



周辺の案内図には、見どころが色々と記されています。



千本浜公園に着きます。



そして松林に入ります。歌舞伎の場面が浮かんできます。






ちなみに松原の中に、若山牧水の歌碑が建っています。





近くには旧居跡、



そして若山牧水記念館もあり、沼津は牧水を顕彰し大切にしているのがわかります。




松原の中には「この子のかわいさ」という歌碑もあり、「沼津の子守唄」とも言うらしいです。



他にも井上靖の文学碑などがありますが、近くには「首塚」というのもあるというので、行ってみます。







また松原のはずれ近くに、「六代の松」というのもあります。六代御前は平維盛の子で、ここで殺されそうになった時に、文覚上人が助けた場所だとか…。


 六代の松入口


沼津の千本松原とその周辺――歌舞伎だけでなく、文学と歴史が好きな人は一度は訪れてみたい場所の一つでしょう。

   
(3)

『伊賀越道中双六』の初演は、文楽・歌舞伎ともに天明3(1783)年。

『沼津』で最も印象に残る舞台は、昭和59(1984)年4月に歌舞伎座で観た、17代目中村勘三郎(平作)、中村扇雀(現・坂田藤十郎の十兵衛)、中村歌右衛門(お米)、中村富十郎(下男)が出演した舞台です。


国立劇場では昭和45(1970)年 9月に初演(第34回歌舞伎公演)され、その後何度か再演されました。



(国立劇場「あぜくら会」会報より)
   


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(2018(平成30)年8月8日)
 
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