歌舞伎の舞台名所を歩く

市川團十郎「暫」の像
『暫』


 (1)

歌舞伎十八番『暫』は「鶴ヶ岡社頭の場」の一幕。

関白宣下の式をあげようとする中納言清原武衡(たけひら)は、不届きな行為をしたとして加茂次郎義綱たち(「太刀下(たちした)」と呼ばれます)を成敗しようとします。

成田 イデ、素首を、打っ放そうか。
東金 今が最期だ。
六人 観念しろ、エゝ。

 ト武衛大盃(たいはい)にて酒を飲みにかゝる。赤面六人刀を振りあげる。この時、向う揚幕にて、鎌倉権五郎景政の声にて、

景政 しばらく。
敵役皆々 ヤア。
武衛 待て待て待て。我が心に応ぜぬ奴輩(やつばら)の、罪を糺(ただ)して成敗なし、今盃をめぐらさんとなす折柄、
成田 どうやら聞いた初音の一声、暫くという声を聞き、首筋元がぞくぞくいたす、流行風(はやりかぜ)でも引かにゃアいゝが。
東金 左様左様。
荏原 かく言う手前も有ようは、足の裏がムズムズ致し、気味が悪うござるわえ。

                    (中略)

武衛 今しばらくと声かけたるは、
敵役皆々 何やつだ、エゝ。
景政 しばらく。
敵役皆々 暫くとは。

景政 暫く暫く、暫(しばらあ)ブウ。

 かゝる所へ、鎌倉の権五郎景政、
  ト大小人寄せになり、景政、吉例の暫の拵えにて出て来り、花道へ留まる。

 素袍の袖も時を得て、今日ぞ昔へ帰り花、名に大江戸の顔見世月、目覚しかりける次第なり。
  トよろしく座に着く。
  (『名作歌舞伎全集』第18巻、88頁)

そして家来の一人に「いやさ、何やつだ、エゝ」と問われると、いよいよ景政のつらねです。
 
  景政 淮南子(えなんじ)に曰く、水余り有って足らざる時は、天地に取って万物に授け、前後するところなしとかや。何ぞ其の公私と左右とを問わん。問わでもしるき源は、露玉川の上水に、からだ許(ばか)りか肝玉まで、滌(すゝ)ぎ上げたる坂東武士、ゆかり三升の九代目と、人に呼ばるゝ鎌倉権五郎景政、当年こゝに十八番、久し振りにて顔見世の、昔を忍ぶ筋隈は、色彩(いろどり)見する寒牡丹、素袍の色も柿染も、渋味は氏(うじ)の相伝骨法、機に乗じては藁筆に、腕前示す荒事師、江戸一流の豪宕(ごうとう)は、家の技芸と御免なせえを、ホゝ敬って白(まお)す。

  ト宜しくつらねあって納まる。(同上、89頁)
 
最後に権五郎は大太刀一閃、一度に大勢の仕丁の首を豪快に刎ねて、義綱たちを救うのでした。

 

(左)鳥居清倍画「五代目市川団十郎賛 暫の図」 国立劇場蔵
 「五代目は「太田南畝や烏亭(立川)焉馬など当時の江戸を代表する文人とも親しく交わっており、五代目自身も俳名を白猿と称して狂歌、俳句をよくした。
 顔見勢や 三升樽の 江戸の 艶 五代目 白猿」

(右)二代目歌川豊国画「七代目市川団十郎賛 暫の図」 奈良県立美術館蔵
 「暫くは「初代団十郎にはじまり、二代目団十郎以降は顔見世には欠かせないものとして代々演じられた。その扮装は鬢(びん)は五本車鬢に烏帽子と白い力紙を付け、顔には紅の筋隈、三升の紋を付けた柿色の素襖(すおう)をまとい、大太刀を佩(は)く。
 たゝ先祖のかけ なるへし 顔見せや 臼とる跡に糖の月 □目三升」
 (「七代目団十郎と国貞、国芳」展図録(岐阜県立美術館, 平成13年)6, 15頁より)


(2)

浅草寺の裏手の一角に一つの大きな像が建っています。

九代目市川団十郎演じる「暫」の像です。



この日は三社祭の当日で、酔いつぶれた人たちが暑い中像の前に寝ています。あたかも、鎌倉権五郎の大太刀で首を落とされた武衡の仕丁たちのように!



左下に「銘」があります。



銘文は「昭和の黙阿弥」と言われた劇作家の宇野信夫(明治37(1904)- 平成3(1991))によります。

  大正八年 江戸歌舞伎ゆかりの地 浅草の浅草寺境内に 劇聖と謳われた明治の名優九代目市川團十郎の歌舞伎十八番「暫」の銅像が作られました 

この銅像は 近代彫刻の先駆者 新海竹太郎氏の傑作であり 歌舞伎の象徴として全國の人々から親しまれておりました ところが第二次世界大戦中の昭和19年(1944年)11月30日金属回収のため この「暫」の銅像も供出の命を受け 40余年を経てまいりました

この度 12代市川團十郎襲名を機に 復元の機運が高まり浅草寺の御理解のもと 多くの方々に御尽力を賜り ここに「暫」の銅像が再現されました 

11代目並びに12代市川團十郎父子 地元浅草及び松竹株式会社三者の永年の願いが叶えられたことになります

こののちも 歌舞伎の隆盛とともに この「暫」の銅像が歌舞伎の象徴として 日本國民はもとより世界の人々からも 幾久しく愛されますことを願ってやみません

  昭和61年(1986年)11月3日                 宇野信夫 撰書

  九代目市川團十郎「暫」銅像 復元建設委員会
    12代市川團十郎
    浅草観光連盟
    松竹株式会社






なお、この像のモデルは、明治28(1895)年に東京・歌舞伎座で9代目市川團十郎が演じた時に撮影した写真である、と『歌舞伎事典』(平凡社, 1983)に書いてあります。




(3)

『暫』について、その辛辣な批評で役者から恐れられたという劇評家・劇作家の岡鬼太郎(明治5(1872)-昭和18(1943))は、こんな賛辞を呈しているそうです。 

  狂言が古風で大まかで好い。舞台面の色彩、くだいていへば色どりなり列びなりの見た状が好い。細かくいへば、暫その他の役々の扮装が面白い。狂言の段取りが面白い。どこまでも景気がよく、どこまでも洒落のめしてゐるのが面白い。江戸の芝居の色香を多く持ってゐるのが面白い。
(『名作歌舞伎全集』第18巻、80頁)

 
歌舞伎座11月の顔見世で何度も観ましたが、忘れがた舞台は二つあります。

一つは、初めて観た昭和44(1969)年の歌舞伎座、市川海老蔵襲名興行の昼の部、17代目市村羽左衛門が鎌倉権五郎を演じた舞台。

当時三之助と言われた一人・市川新之助の海老蔵の襲名で、若くして亡くなった初代尾上辰之助、尾上菊之助(現7代目尾上菊五郎)も共演しました。

この時、清原武衡を演じたのは尾上九朗衛門(大正11(1922)-平成16(2004))でした。九朗衛門は6代目尾上菊五郎の子で、アメリカへ留学し、不運にもに脳出血で倒れた後、移住してハーバード大学・コロンビア大学などで演劇を教え、歌舞伎の普及に尽力した異色の人でした。



歌舞伎座プログラムより


もう一つは昭和60(1985)年4月の歌舞伎座、12代目市川團十郎襲名興行で新團十郎が鎌倉権五郎を演じた舞台。隋市川とあってほとんどすべての歌舞伎役者が顔を揃えた豪華な襲名の三カ月の幕は、この『暫』で切って落とされました。あの時の期待と興奮、そして感激! 


歌舞伎座チケット
   


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(2018(平成30)年9月1日)
 
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