歌舞伎の舞台名所を歩く

  修禅寺
『修禅寺物語』


 (1)

岡本綺堂『修禅寺物語』の第二場、「おなじく桂川のほとり、虎渓橋のたもと」、源頼家の台詞です。

あたゝかき湯の湧くところ、温き人の情けも湧く。恋をうしないし頼家は、こゝに新しき恋を得て、心の痛みもようやく癒えた。今はもろもろの煩悩を断って、安らけくこの地に生涯を送りたいものじゃ。さりながら、月には雲のさわりあり、その望みも果敢なく破れて、予に万一のことあらば、そちの父に打たせたる彼のおもてを形見と思え。
(『名作歌舞伎全集』(創元社, 1969)第20巻、165頁)

月光の下の橋のたもとで、源頼家と夜叉王の娘・桂が恋を語る美しい場面です(シェイクスピアの『ヴェニスの商人』のシャイロックの娘・ジェシカと恋人ローレンゾーが恋を語る名場面を思い出させます)。

このあとのト書きです。
 
月かくれて暗し、籠手(こて)、脛当て、腹巻したる軍兵二人、上下よりうかがい出でて、芒むらに潜む。虫の声俄かにやむ。

一気に劇的緊張が高まる名場面です。

(2)

修善寺へは「三島」駅から伊豆箱根鉄道で約25分で着きます。
駅からバスで修善寺温泉駅まで7・8分、降りて先ずお寺に向かいます。





◆福知山修禅寺










山門の左にあるちょっとした庭のようなところを見て、門をくぐり、まず右手にある手水舎で手を清めます。






境内を見わたします。



 
鐘楼と百度石









「弘法大師のぼり幡 供養施主募集 1本五千円」






◆宝物館「瑞宝館」





岡本綺堂が『修禅寺物語』を書くヒントになったと伝わる古面があります。能面よりもかなり大きな面で、入場券に印刷されています。




綺堂と『修禅寺物語』に関する展示のコーナーがあります。主な展示品は、

 ・軸装の夜叉王の絵
 ・「門下生 北条秀司」が綺堂の『修禅寺物語』について書いた色紙を大きくしたような紙
 ・綺堂の俳句の短冊が2枚。その一枚には、
    トンカツを喰らふ江戸子が鰹とは 綺堂
 ・市川左團次の衣装と使用の小道具
 ・奉納目録
   鬘、面、衣装、小道具、面、舞台写真などを列記
   昭和16年2月9日付けで奉納者は「左団次妻 高橋登美」 (達筆です!)


瑞宝館を出て、境内を見て回ります。









山門の向こうに見えるのが舞台となった橋


◆虎渓橋。







「とっこの湯」から見て、橋を渡ります。





そして頼家の史蹟を回ります。



◆「筥湯(はこゆ)」

入浴中に暗殺されたとされる筥湯は、左に行くとすぐに見えます。








◆頼家の墓













◆指月殿

頼家の冥福を祈って、母の政子が修善寺に寄進したものとのことで。中を見るとかなり大きな釈迦如来坐像が祀られています。






◆十三士の墓

頼家の墓のすぐ左手は源氏公園です。







また修善寺には源範頼に関する史跡もありますが、それらについては「平家物語の舞台を歩く」の「範頼の墓」をご覧ください。


今回は修善寺梅林へは行けませんでしたが、ここには「修善寺物語碑」、2代目市川左團次、初代中村吉右衛門の句碑などが建っています。


(3) 

さて芝居に戻って…

『修禅寺物語』(一幕三場)の初演は1911(明治44)年の明治座。

作者の岡本綺堂は『修禅寺物語』について、次のように書いています。

  取り分けてわれわれの窮したのは、史劇の「言葉」である。云うまでもなく、われわれは努めて現代語に近寄せようとするんであるが、それでは観客が承知しない。早い話が、何々であると云うばあいに「何々だ」と云うと観客はどっと笑う。要するに「何々で候」とか「何々でござる」とか云わなければ承知しないのである。笑う位ならばまだ好いが、中には腹を立って「馬鹿野郎」などと呶鳴る人さえある。そこで、作者も思い切って「何々だ」とは云い切れず、そこを折衷して「何々じゃ」ぐらいのところで我慢して貰うことになる。万事がこういう始末であるから、作者も困る。俳優も困る。実に共難儀であった。

「修禅寺物語」の主人公たる夜叉王の一家は職人であるから、比較的自由に現代語を使いこなせるのであるが、右の事情でそれが自由にならない。殊に頼家などになるといよいよ困る。よんどころなく或る場合には一種のリズムのあるような台詞廻しにしてしまったが、その鵼(ぬえ)式のところを耳立たないゆに胡麻かそうとするのに又苦しんだ。今から思えば、実に無駄な苦労をしたものであるが、それでも上場の暁にはどんあ結果になるか。観客に笑われるか、観客に怒られるかと、内心頗る危ぶんでいたのであった。
 (岡本綺堂『綺堂芝居ばなし』(旺文社文庫, 1979) 190-91頁)
 
こう書いたのは昭和8年のことでしたが、新作歌舞伎を生むには並々ならぬ苦労があったことを知ります。

中村富十郎がたびたび夜叉王を演じていたのを思い出しますが、8代目坂東三津五郎はこんなことを書いています。
 
  小道具が用意した面はお神楽に使うようなお面のようで気になったので、金剛流の能の中将の面を借りてきた。最初はそれを使ったが、傷でもつけたら大変だ思い、徳川中期の中将を探してきて使った。「その翌日桂をしていた扇雀君が舞台で面を落した。私の買ったのだからよかったが、前の日だったらと思ってぞっとした。
(坂東三津五郎『聞きかじり見かじり読みかじ』(五月書房, 1965)158頁)
 
古美術にも造詣の深く、茶人でもあった8代目は、時々茶碗なども小道具が用意したものでなく、自分で選んだ本物を舞台で使ったのでした。 


舞台になった土地を訪れた後で観る芝居は、それまでとは違った味わいがあるものですが、今度は誰の夜叉王、頼家でこの舞台を観ることができるのか楽しみです。



お読みいただきありがとうございました。

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(2019年3月6日撮影)
 
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