歌舞伎の舞台名所を歩く

  伝馬町牢屋敷跡
『四千両小判梅葉』


 (1)

河竹黙阿弥作『四千両小判梅葉』、四幕目は「伝馬町西大牢の場」です。

この場は、実際に牢に入っていた者から直接聞いた話を、そっくり芝居に取り入れたとのことで、牢名主、隅の隠居、二番役(富蔵の役)、三番役以下の序列、新入り、お仕置の「きめ板」等々、牢内の風俗資料としても大変価値が高いとされます。

新入りが入って来るところから。

呼ビ 北の御番所入牢がある。
皆々 あ

  ト鍵の音して、お戸前口より一々肩書を読み、下谷無宿の九郎蔵破落戸(ならずもの)のおしらえ、紙屑買いぼろ八そぼろななり、下金屋銀兵衛商人のこしらえして、三人を入れる。

富蔵・皆々 おありがとうござります。

  ト戸前をしめ錠をおろす音する、三人戸前にうずくまりいる、富蔵ぼろ八をぐるぐる引っ張り廻して引きすえ、

富蔵 やい、手前(てめえ)は何処の者だ。
ぼろ へい、私は芝の新網で紙屑買いをいたします、ぼろ八と申します者でございます。
富蔵 これ、こゝは地獄の一丁目で二丁目はねえ所だ、これより先に行く所はねえぞ。牢は初めてか、元来てもいつ来ても畳一畳々々に格式があってむずかしい、諸方で噂を聞いたであろうが日本一の三奉行よりおっかねえ西の大牢とはこゝのことだ、うぬが今のめずり込んだ所はお戸前口(とまえ)牢屋門という所だ、命の蔓は何千何百両持って来た。
ぼろ 一把持って参りました。
富蔵 えゝしみったれな野郎だな、うぬがようなすってんてんのてけれんぼうは、碌な泥坊もしめえ。
(『名作歌舞伎全集』第12巻、113頁)

そして長々と牢法を説き聞かせます。

以前富蔵の妻たちをひどい目に逢わせた男が入ってくると、仕返しの許可をもらって、

富蔵 隅の御隠居のお声掛かりだ、馴染がいにうぬに十本、おれが馳走をしてやるぞ。
眼八 何もぶたれる覚えはねえ。(ト立ちにかゝるを)
二番 じたばたすると、
三四 引き伏せるぞ。

  ト眼八是非なくじっと下にいる、富蔵きめ板で一つ二つと十打つ、眼八痛さをこらえ、悔しき思入れ。

富蔵 これでおれが胸が晴れた。
眼八 よく酷い目に逢わしゃあがったな。
数見 これ、田舎牢とは訳が違うぞ。
上陰 日本一の江戸の大牢、
平陰 ぐずぐず言やあ素っ裸にして、
仮陰 すってん踊りを踊らせるぞ。
眼八 えゝ、忌えましい目に逢うことだ。(同上、110-111頁)

そして富蔵が処刑になる前夜、

  勘右 さっき帳番からちらりときいたが、明日御用になるそうだ。
  それじゃあ富蔵、
皆々 明日は別れか。
富蔵 皆さんにも長い間、大きにお世話になりました。

  ト辞儀をする、貫五郎思入れあって、

貫五 御蔵金を破ったは御世(ごよ)始まってねえ賊だから、お仕置に出るその時は、立派に仕度をしてやろうと思っていたが牢内も、世間につれて不景気に心に思うようにも行かねえ、気附は唐桟、帯は博多、これで不承してくんねえ。

  ト夜具棚にある風呂敷包みを出す。富蔵これを取って頂き

富蔵 高の知れたわっちをば、お前さんを初めとして隠居方のお情で、大した役を勤めまして今日まで楽をした上に、明日の晴れた唐桟に博多の帯の仕立おろし、故郷の者に見られても立派に仕置が受けられます、実に涙のこぼれる程有難うございまする。

  ト辞儀をなし嬉しき思入れ


貫五
 天下に稀に科人だから、跡へその名も残るよう、とても死ぬなら立派に死ね。
富蔵 そりゃあ覚悟をしておりますから、未練な死にようはいたしませぬ。
勘右 手前が出る時やろうと思って、え置いた紙の数珠、明日これを掛けて行け。

  ト紙でたゝんだ数珠を富蔵に遣る。

富蔵 これはこれは有難うござります。(ト受け取り)長い間お前さんにも御厄介になりました、まことにお名残惜しゅうござります。
五番 親女房へ言伝でも、あるなら言って置くがいゝ。
富蔵 これも熊谷にいましたが、江戸へ出ると言いましたから、今じゃあ何処におりますか、別に言伝はござりませぬが、この世の別れに只一目、娘に逢いとうござります。

  トほろりと思入れ、貫五郎これを見て、

貫五 いや早く帳番にそういって、酒と肴を入れてくれ。芸尽しでもみんなにさせ、賑やかに別れをしよう。
  (同上、111-12頁)
   
(2)

伝馬町牢屋敷と処刑場跡は、現在の中央区日本橋小伝馬町にありました。



地下鉄日比谷線「小伝馬町」駅で下車します。4番出口を出ると、こんな石碑が、



この右に説明板があります。



左の角を曲がって少し行くと、お寺の横の入口があり、その角の



左の通りが時の鐘通りです。





塀の間に、「江戸伝馬町処刑場跡」の石碑が見えます。







先ほど見たお寺の名は「大安楽寺」で、



塀に詳しいご由緒があります。



本堂の左には、所せましとばかりに色々とたっています。



仏像は「延命地蔵尊」で、この像が建てられた理由がわかります。



左には弁財天も祀られています。

この反対側には出土した石でしょうか、この辺りに牢屋敷と井戸があったことがわかります。



通りの右が十思公園です。





この公園は「時の鐘」があることで知られます。







この鐘の音に合わせて死刑囚が処刑された、と書いてある本もあります。

この向こうに石垣が見えます。






「中央区まちかど展示館」という小冊子に、「小伝馬町牢屋敷展示館」があると書いてありますが、どこにもその表示はありません。「十思湯」の入口があるので、入って聞いてみます。するとそのロビーに模型が展示されているだけでした(これを「展示館」とは!)。

でも牢屋敷の建物、内部の様子が分かって興味深く見ます。







平面図に牢内の様子が詳しく説明されています。



またここに入れられた人たちの似顔絵入りのパネルもあります。



牢屋敷の「上水井戸跡」への矢印があるので行ってみます。



下を覗くと、確かに古い井戸が見えます。




出ると公園で、左に十思公園の門があります。



再び公園に戻って、スクエアと反対側にいきますと、いくつも石碑がたっています。



ここは吉田松陰に関する石碑が並んでいて、一番右の文字だけは読むことができます。



この右には、杵屋勝三郎歴代記念碑が建っています。長唄の三味線方らしく、三味線も刻まれています。




時の鐘通りに戻り、大安楽寺と伝馬町の石碑をもう一度見て、駅へ向かいます。




(3)

『四千両小判梅葉』の初演は明治18(1885)年11月、千歳座。

この芝居も滅多に見ることはできません。

昭和47(1972)年2月、歌舞伎座で上演され、『演劇界』11月号を見ると、利根川金十郎のすってん踊りが面白かったと書かれていて(16頁)、この役者のことを懐かしく思い出しました。

言葉ではうまく表現できませんが、独特の雰囲気を持ったこの名脇役は、団十郎の向こうをはって、相手が市川ならそれより長い利根川、「団」に対してこっちは「金」だ、と利根川金十郎と名のったというのです。

昭和58(1983)年2月にも歌舞伎座で再演され、大好きだった2代目尾上松緑(野州無宿入墨富蔵)と17代目市村羽左衛門(藤岡藤十郎)が出演したこの舞台はよく覚えていますが、『演劇界』の劇評(3月号、28頁)に、「今月を手本として、この風俗描写劇は、次の世代に伝えられるだろう」(戸部銀作)とあります。この雑誌の舞台写真も貴重な記録です。


 『演劇界』3月号グラビア写真


劇評にある通りに、次の世代に継承され、昭和62(1987)年 3月、国立劇場で5幕7場の通し狂言として上演されました(第142回歌舞伎公演)。

4幕目が「伝馬町西大牢の場」(約30分)、尾上菊五郎(富蔵)と12代目市川團十郎(藤十郎)の主演、3代目河原崎権十郎(牢名主松島奥五郎 )、5代目片岡市蔵(隅の隠居)、10代目岩井半四郎(生馬の眼八)といった名脇役も出演しました。

もう一度見てみたい役者ばかりですが、菊五郎を除いてみんな鬼籍にはいってしまいました。歳月は名優たちをも容赦なく奪っていってしまいます…。

その後ぼくは観ていませんが、今後この芝居を見ることができるのでしょうか?
   
   
お読みいただきありがとうございました。

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(2018(平成30)年7月26日)
 
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