歌舞伎の舞台名所を歩く

  鶴岡八幡宮
『石切梶原』


 (1)

鶴岡八幡宮と言えば、先ず何といっても『假名手本忠臣蔵』の大序が思い浮かびます。鶴岡八幡社頭のかぶと改めです。
 
  直義 その頃は塩冶が妻は、十二の内侍のその内にて、兵庫の司の女官なりと聞き及ぶ。 さぞ見知り有らんず。覚えあらば兜の本阿弥。サゝ、目利き目利き。

 厳命さえも和らかに、お受け申すも又なよやか。

顔世 こは冥加に余る君の仰せ。それこそは私が、朝夕手馴れし御着(ごちゃく)の兜、義貞殿拝領にて、蘭奢待(らんじゃたい)という名香を添えて賜わる。お取次ぎは即ち顔世、その時の勅答には、人は一代名は末代、すわ討死せん時、この蘭奢待を思うまゝ、内兜に焚きしめ着るならば、鬢(びん)の髪に香(か)を留めて、名香薫る首とりしという者あらば、義貞が最期と思し召されよとのお詞、よもや相違はござりますまい。(名作歌舞伎全集、第2巻、22頁)

 
鶴岡八幡宮は他のいくつもの芝居にも出てきます。国立劇場の公演から拾ってみますと、

  昭和48(1973)年1月  男伊達吉例曾我(おとこだて きちれいそが)
  昭和49(1974)年1月  女暫(おんな しばらく)
  昭和56(1981)年1月  日本第一和布苅神事(にっぽんだいいち めかりのじんじ)
  平成18(2006)年1月  曽我梅菊念力弦(そがきょうだい おもいのはりゆみ )
  平成18(2006)年3月  當世流小栗判官(とうりゅう おぐりはんがん)
  平成25(2013)年1月  夢市男達競(ゆめのいち おとこだてくらべ)
  平成25(2013)年12月 忠臣蔵形容画合(ちゅうしんぐら すがたのえあわせ)

などがあります。いずれも通し狂言の序幕です。


独立した一幕としてよく舞台にかかる芝居には、歌舞伎十八番『』と、長谷川千四・文耕堂合作の『梶原平三誉石切』(かじわらへいざ ほまれのいしきり)、通称「石切梶原」があります。

ここでは後者を取り上げたいと思います。

六郎太夫は源氏再興のため伝家の名刀を手放すことにします。「二つ胴」(二人を重ねて切ること)に成功するなら、買い上げると言う大庭兄弟。罪人は一人しかいないので、六郎太夫は自ら試し切りにされることを望みます。

依頼された梶原平三は、罪人だけを切って六郎太夫を助けます。そして源氏に心を寄せていることを打ちあけます。
 
六郎 それ承りまして大安心を致しましたが、安心のならぬのは名作の証拠もなきこの刀を、押付売じゃと言わるるも口惜し、また御身の上の言い訳も。

梶原 オゝ、それこそは梶原が、名作の証拠を見せん。ハテ、何をがな、ムゝ幸い。

 コレ幸いと立ち上がり、いざと二人の手を執りて、日影に向かわせ、二人を写す影法師、

 トあたりを見廻し、手水鉢を見て思入れ。梶原立ち上がり、こなしにて二人を手水鉢の前に座らせ、影を見て、


見よや両人。(トのりになり)親子の姿ありありと、写りし影を某が、今手に掛けて試しもの、死ぬる者には影なしと、言い習わせしも時の重宝、秘蔵の刀の切味見よや。

 厚さ尺余の青目の石、丁と打てば親と子の、影は分かるる二つ胴。

 ト本釣鐘、梶原こなしあって手水鉢を二つに切る。これにて手水鉢割れる。六郎太夫梢驚き、のりになり、


  あれ、モシ父(とと)さん。

梶原 剣(つるぎ)も剣。

六郎 切り人(て)も切り人。

 ト六郎太夫梢は梶原の手の内を感心のこなし。梶原は刀を見て感じ入る思入れ。

 さてこそ源氏一統の、御代(みよ)に秀でし梶原平三。


鎌倉殿を守護なすには、これ屈竟(くっきょう)の希代の剣。

 実(げ)に梶原と言いはやす、誠に武士の鑑なり。

そして、
 
  梶原 六郎太夫は娘を伴い、某が邸へ参れ。望みの金子取らすであろう。 

 (『名作歌舞伎全集』第3巻、21-22頁)

と言うのでした。


(2)

鶴岡八幡宮の所在地です。




東京駅でJR横須賀線に乗って1時間、鎌倉駅に着きます。



駅を背にして真っすぐ進むと、すぐ交差点で左に第二鳥居と八幡宮が見えます。



通りを渡ると大きな地図があり、見たいところがたくさんあります。



第二鳥居の前に来ます。





今度は左から見てみます。



段葛です。





こんなに長かったのかと思いながらゆっくりと歩きます、始めて来た時のことを思い出しながら…。途中右手に鎌倉彫会館や、趣のある木造の家が二軒ほど目に入ります。

まもなく第三鳥居です。



鳥居をくぐると石橋がありますが、渡れませんので、



左に寄って、



石橋の隣の見事な松を眺めます。



左右の源氏池を見て、旗揚げ神社に参拝して、参道を進みます。

流鏑馬馬場が参道の左右に長く延びています。



日曜日のこともあるでしょうが、いつの間にか大勢の人たちが本殿に向っています。




◆祖霊社

左にある手水舎の反対側を見ると、



今日は何があるのかわかります。



宮司の方が参道の中央・右の砂利路は歩かないように協力を求め、左右の通り道になるところに立っています。いくつか聞いてみます。10時から祖霊社に行く神主の方たちがここを横切るとのこと、時計を見るともう少しで10時ですので、待つことにします。

時間になると先導者に導かれて、出てこられます。



参道を横切り、





手水舎の前を左へ進みます。



祖霊社の鳥居はすぐのところにあります。大体どの神社仏閣でも一回りして、境内社・末社やらは一通り見ることにしていますが、ここは見逃していました。

八幡宮には他の神社の末社は無く、祖霊社が唯一つ、八幡宮の末社だそうです。



すぐ神主さんの祝詞が始まり、参列のみなさんが首を垂れます。



本殿にお参りをした後で寄ってみると、終わったところで、二人の巫女さんが帰る参列者にお神酒をついでいます。

タイミングよく珍しいものを見ることが出来、良い日に来たと思います。平成30(2018)年9月23日の日曜日のことでした。




◆舞殿

舞殿に近づき、左右から見てみます。







ここで、毎年、4月の第3日曜日に静の舞が奉納されるとのことで、今度見てみたいものです。

静の舞といえば、今年の正月、東京・新橋演舞場で、市川海老蔵が新歌舞伎十八番『鎌倉八幡宮静の法楽舞』を上演しました。残念ながらこの舞台は観る機会を逸しましたし、観たことがないので、どんな芝居なのかわかりませんが、再演を期待したいと思います。


この右、石段の手前には絵馬と御朱印を求める人たちの長い列ができています。







◆大いちょう

石段の左へ行きます。台風で倒れた大銀杏とその説明板があります。






この大銀杏、かつてはこのような姿をしていました。




 (平成16(2004)年11月4日撮影)

この紅葉したイチョウは写真で見るしかありません。


 (『 花の歳時記』第5巻(小学館, 1982)より)


若木はここまで育っています。



この可愛い木も紅葉すると、こんなにきれいです。


 (平成28(1016)年11月26日撮影)

並んでいる古木・若木を見ます。



この左に大銀杏を励ます大絵馬が奉納されています。




ちなみに、『仮名手本忠臣蔵』の大序の舞台でも、紅葉したイチョウの木が配されます。


 仮名手本忠臣蔵 大序(『歌舞伎定式舞台集』(大日本雄弁会講談社, 1958)より・部分)


◆本殿

本殿への石段を上ります。



参拝者の人たちが群がっています。建物だけを写します。





「八幡宮の」の「八」は鳩をかたどっているのに気がつきます。

中へ入ると、誘導の人が、「混雑しています、話をしないで進んでお参り下さい」と言っています。ここにも左右に絵馬掛けが見えますが、珍しいところにあるものです。




干支の絵馬もありますが、やはり大銀杏の図柄が主です。






右横の石段に座って一休みして、階段を下ります。



参道を真っすぐ戻り、石段をもう一度見ます。





鳥居をくぐって振り返ると、人・車・人力車などでごったがえしています。流石古都鎌倉です。




ちなみに北鎌倉の建長寺の方から来ると、こちらにも鳥居があり、石段を上ると、本殿の横に出ます。




段葛の右の通り、たまたま見つけたゆったりとした風情のある店で食事をして、鎌倉駅に戻ります。




   
 (3)

『梶原平三誉石切』の歌舞伎としての初演は享保15(1730)年冬、大阪・角の芝居。


石切梶原 鶴ケ岡八幡宮の場(田中良 『歌舞伎定式舞台集』より)



 歌舞伎座 絵看板


中村吉右衛門の梶原、助高屋小伝次の六郎太夫 中村松江(現2代目中村魁春)の梢
(『歌舞伎名作案内 1』(演劇出版社, 1979)グラビアより)


吉右衛門の梶原平三景時
御園座 2018年4月(『演劇界』2018年6月号より)

この一人になるのは呑助で、酒づくしのせりふをいいます。端役を大幹部の役者が演じることを「ご馳走」と言いますが、いつでしたか17代目中村勘三郎が演じたことがあります。最高のご馳走でした!

 
   
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(2018(平成30)年9月29日)
 
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