歌舞伎の舞台名所を歩く

 和歌の浦③ 玉津島神社と和歌の浦
 (『卅三間堂棟由来』)
 
 
 (1)
 
『卅三間堂棟由来』(さんじゅうさんげんどうむなぎのゆらい)、「木遣り音頭の場」は、
   本舞台、和歌の浦を見たる遠見、街道筋。

   はや東雲の街道筋、木やり囃子で地車の、とどとどろく音ぞ勇ましや。

   和歌の浦には名所がござる、一に権現二に玉津島、三に下り松四に塩釜よ、ヨイ
   ヨイヨイトナ。

   (『名作歌舞伎全集』第4巻、212頁)
 

(2)

◆玉津島神社



玉津島神社は塩竃神社のすぐ隣にあります。バス通りの西参道から入ります。



「由緒略記」です。



こんな和歌が刻まれた石もあります。和歌の浦がいかに景勝の地として、訪れた人たちの心に残ったかが伺えます。



鳥居をくぐって正面にあるのは拝殿です。



この左手を行くと万葉歌碑が二基たっています。万葉集に登場する万葉故地をすべて訪れ、その研究で高名な犬養孝揮毫による歌碑です。



その説明板です。よくわかりませんが、最後の短歌「若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴鳴き渡る」は後で出てきます。



近くに何かあります。



音頭に出てくる松かとおもったら、それではなく、「根上り松」でした(「下り松」は枯れ果てたそうです)。「砂の移動などで長い時間をかけて根元が洗われ、このような根上がりの形になったと言われている」と神社でもらったパンフレットにあります。このようなものを見るのは、もちろん初めてで、自然の技を感じます。

 

(3)
 
和歌の浦

「和歌の浦」について、参道入口にこんな詳しい説明板があります。



ちなみにこの歌をモチーフにした絵があります。


 松尾敏男「鶴鳴きわたる」 六曲屏風一隻
 (『万葉歌を描く』(奈良県立万葉文化館, 2003) 97頁)

玉津島神社の鳥居の前に、「名勝和歌の浦 奠供山(てんぐさん(やま)」の碑があります。案内の矢印の方へ行ってみると、神社の裏手で、登り口には「聖武天皇ゆかりの神域」である旨が記されています。



石段はかなりきつかったですが、頂上に着いて疲れは吹き飛びます。絶景がそこにはありました!



左の方へ目をやると、先ほど渡った不老橋が見えます。



青空の下、ゆっくりと見て心に刻みます。途中で引き返したくなりましたが、登って本当によかった、と思いながら、来た時とは反対側から下ります。



見たいところは全部見ましたので、通りに出て「不老橋」でバスを待ち、和歌山駅に戻ります。「和歌の浦」を満喫した一日でした。


 

 (4)
 
原作は人形浄瑠璃で、「三段目をほとんどそのままに、文政八(1825)年七月《卅三間堂棟由来》と改題」(『歌舞伎事典』平凡社, 1990)され、歌舞伎でも上演されます。

木下順二の名作『夕鶴』と同じく、いわゆる「異類婚姻譚」で、『卅三間堂棟由来』の題名の由来は、「白河法皇の病気の原因は、前世のどくろが柳の古木の梢にかかってゆれるためとわかる。そこで、その柳を切り、三十三間堂の棟木(むなぎ)にすることになった。(中略) 横曾根平太郎と契り一子緑丸をもうけていた妻お柳は、実はその柳の精であったので、夫と子に別れを告げて去る」との同事典の記述から納得します。

 三十三間堂と柳


最近では平成28(2016)年7月に国立劇場「第90回歌舞伎鑑賞教室」で、坂東新吾による解説「歌舞伎のみかた」に続いて上演されました。2幕3場、2幕目の最後が「木遣音頭の場」、お柳に中村魁春、横曽根平太郎に坂東彌十郎、子役は二人が交代で勤めましたが、可愛い子供が演じる緑丸は観客の涙腺を絞らずにはおきません。



国立劇場・歌舞伎鑑賞教室のちらしと入場券
 
     
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(2018(平成30)年5月13日)
 
 
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