歌舞伎の舞台名所を歩く

  靖国神社(招魂社)
『島鵆月白波』


 (1)

河竹黙阿弥作、『島鵆月白波』(しまちどり つきのしらなみ)、通称「島ちどり」の五幕目は「招魂社鳥居前の場」です。

松島千太は、「改心しないなら殺す」という島蔵に「殺してくれ」と迫ります。

島蔵 おゝ殺せとあるなら殺してやろう。

 短刀逆手に島蔵が、突かんとせしがためらいて、悪人ながら今日までは、兄よ弟よといいしゆえ、不愍に思い気を取り直し、(ト島蔵よろしく思い入れあって)

売詞に買詞で、殺せと言うなら今殺すが、己も一旦兄弟分の縁を結んだことだから、殺してえことはねえ、悪いことだと気がついて、盗みを止めることならば、何処が何処まで引き受けて生涯世話をしてやる気だ、手前と分けた五百円も心さえ改めたら、どうか己が算段して、福島屋へ返した上、自首したことなら今もいう十年ならば七年か、五年になるはお上の慈悲、それを頼みに思い切れ、見得にもならねえことだけど、金を返して自首するはさすがは立派な強盗だと、盗人仲間の噂になり、性は善なる人の身に悪いことだと心付き、盗みを止める者が出来たら、聊(いささ)か上への御奉公、人に褒められて生き延びるか悪く言われて命を捨てるか、こゝが生死(じょうじ)の境だから、よく料簡をつけてみろ、

 さすがは兄のなるだけの、堪忍強き島蔵が、意見も秋の小夜風(さよかぜ)と、ともに身に沁(し)み悪党の千太は夢の覚めた如く、善に返りて両手を突き、

 ト島蔵よろしくあって言う、このうち千太段々に俯向(うつく)き、後悔せし思い入れにて、顔を上げず、よき程に上げ、涙を拭い、両手を突き、

千太 これ兄貴、堪忍してくんねえ、お前の意見ですっぽりお、己あ今日から改心した。

(『名作歌舞伎全集』、第12巻、412-13頁)

幕切れは黙阿弥得意の渡り台詞、引っ張りの見得で拍子幕となります。

千太 こゝに打ち寄る人々は、
徳蔵 浜の真砂の窃盗より、
島蔵 沖を越したる強盗の、
千太 気の荒波も引汐に、
輝  たちまち善に返る波、

 善に返りて打ち悦ぶ折柄四時の朝浄(あさぎよ)め、
 (ト鈴の入りし台拍子、鶏笛になり、皆々思入れあって)

あの台拍子は、招魂社の、
島蔵 毎朝四時の朝浄め、
千太 不浄を払う鶏(にわとり)の、
徳蔵 声勇ましき夜明前、
  空も晴れ行く、

 ト空を見上げるを木の頭。

皆々 東雲じゃな。

 ト皆々引張りよろしく、早き台拍子への鈴の音を冠せ、
                                  ひょうし幕
(同上、416頁)


(靖国神社 写真パネルより)

「招魂社」を辞書で引きますと、

  「明治維新前後から国家のために殉職した人の霊を祀る神社」(広辞苑) 

で、1939年(昭和14)に靖国神社と改称したとあります。


(2)

靖国神社は、



地下鉄東西線の「九段下」駅を出ると、九段坂を上ってすぐのところにあります。武道館側に出たので、歩道橋を渡ります。



大きな鳥居です。



第一鳥居の竣工は大正10(1921)年で、その写真が掲示されています。



長い参道を進むと、誰かの像が建っています。大村益次郎、陸軍の創設者で招魂社の創建に力を尽くした人物とのこと。



左に境内案内図があります。



第二鳥居を通ると、



「神門」です。この言葉、おそらく初めて聞きます。



ここに御由緒があります。



そして第三鳥居と拝殿の前へ。



参拝を終えて、再び第三鳥居を通り、左を見ると、社殿の前に椅子が並べられていて、これから何かあるようです。



菊花展はあちこちで見られる秋の風物詩ですが、ここでも色々な形・色の菊が目を楽しませてくれます。





戻ることにして、神門を通ろうとすると、左右の大きな紋が目に入ります。菊紋のようです。



これだけ長い真っすぐの参道は珍しいのではないかと思いますが、参道の木々は紅葉し始めています。




   
(3)

『島鵆月白波』の初演は明治14(1881)年11月、東京・新富座で、「團菊左」と言われた九代目市川團十郎、五代目尾上菊五郎、初代市川左團次が共演して、話題となったそうです。


周重「島鵆月白波」(招魂社の場)演劇博物館蔵
(『名作歌舞伎全集』第12巻グラビアより)


まず上演されない演目ですが、昭和58(1983)年3月に国立劇場で、5幕9場の通し狂言として上演され、第五幕目が「招魂社鳥居前の場」でした(第120回歌舞伎公演)。

市川海老蔵(後の12代目市川團十郎)の松島千太、尾上菊五郎の明石屋島蔵、17代目市村羽左衛門の望月輝という配役でした。

脇をかためたのは、3代目河原崎権十郎(島蔵父磯右衛門)、7代目坂東簔助(後の9代目坂東三津五郎;徳蔵実は野州徳)ほか。良い脇役がたくさんいました。

みんな泥棒で、みんな最後に素直に改心するので、失笑が起こったのを思い出しますが、面白いというより珍しい芝居を観た、という感が強かったです。散切物は初めてでしたから。


『演劇界』(4月号)には、4頁にわたる各場ごとの詳しい劇評が載っています。

その最初を引用します。

  『島鵆月白波』、黙阿弥の散切狂言の代表作で、明治14年初演のこの狂言は、作の面白さもさることながら、時代背景が戯曲の中に色濃く投影されている点で、殊にユニークな作品といえる。

明石屋と招魂社だけという出し方ではそれ程でもないのだが、通し狂言として上演されると、当時の社会の諸事象の描写が、狂言全体の興味を引き立るための重要な役割を果たしていることがよく分る。

ざっと数え上げても、博覧会見物のための田舎からの人出、銀行の盛んな設立、当時の銀行員の様子、外国人のボーイという職業、絹相場、石造や煉瓦造の建物、女髪結、女中や権妻の口入れ屋、ドル相場師等々についての描写が、或いは登場人物の台詞の中に、或いは、登場人物それ自身の風俗として、狂言全体にちりばめられている。

これらの諸要素の殆どのものは、ある意味では、現代とつながる点があり、その意味で、江戸狂言とは異った一種の親近感と、同時に不思議なエクソティシズムとを今日の観客に感じさせ、散切狂言の魅力を形造る重要な鍵となっている。(ニ川清)

島蔵の台詞にも、
 
  わずか三年たゝぬ内に、往来幅が広くなり、穢ない橋が綺麗になって、以前に勝る立派な学校、こんな所にも石像や煉瓦造りの見えるのは、世界は益々開けて来たな。(同上、334頁)

とありますが、来年は年号が変わる今年、明治150年記念の展覧会が、全国の美術館・博物館で企画されました。

『島鵆月白波』 舞台にかからないにしても、明治という時代を知るうえで、読み物としても興味深い芝居と言えそうです。



東京名所 九段坂靖國神社之景 明治32年(パネル写真より部分)


  ちなみに国立劇場では、歌舞伎だけではありませんが毎月「公演記録鑑賞会」が開かれています。『島衛』も2019年の春に上演されました。1・2年前から葉書による申し込み制になり、定員120名、応募者多数の場合は抽選で、下ははずれの返信葉書。

 



お読みいただきありがとうございました。

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(2018(平成30)年7月26日)
 
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