歌舞伎の舞台名所を歩く

  祐天寺
『色彩間苅豆』(『かさね』)


 (1)

清元の舞踊『かさね』のあらすじです。

絹川与右衛門は腰元の累と結ばれたが、出世のために女を捨て出奔。木下(きね)川堤で累に追いつかれいったんは心を和ませるが、そのとき川辺に髑髏が流れ寄る。十ニ年前以前与右衛門は、累の母菊と密通し、夫の助を殺したが、この髑髏こそ助のものであった。因果によって累は醜婦に変貌し積年の恨みを述べるので、与右衛門は鎌で惨殺してしまう。夏の夜の艶色から怪奇への変貌を清元の名曲にのせて繰り広げる。
(『歌舞伎事典』平凡社, 1983

出奔した与右衛門は累に木下(きね)川堤で累に追いつかれます。
 
思いをも心も人に染まばこそ、恋と夕顔夏草の、消ゆる間近き末のつゆ、本(もと)の雫や世の中のおくれ先立つ二道を、

同じ思いに跡先の、わかちしどけも夏紅葉、梢の雨やさめやらぬ、夢の浮世とゆき悩む、男に丁度青日傘、骨になるとも何のその、跡をおう瀬の女気に、こわい道さえようようと、互いに知らぬ野辺の草、葉末の露か蛍火も、もし追手かと身繕い、心関屋を跡になし、木下堤に着きにけり。

与右 コレ累、おもいがけないこの所へ、そなたはどうしておじゃったぞ。

かさ どうしてとは胴慾な。一緒に死のうといままでに、言い交わしたを反故にして、わたしを置いてお前一人、覚悟の書置、そりゃお前聞こえませぬ。生きるとも死ぬるとも、お前の側を離れはせぬ。一緒に殺して下さんせ。

与右 なるほど切なる恋、さりながら、そなたの養父は預かりの、撫子の茶入れ紛失、それゆえにこそ屋敷は閉門、それさえあるに又ぞろや、一緒に死ねば心中と、浮名が立っては親への不幸、ここの道理を聞き分けて、そなたはここから帰ってたも。
(『歌舞伎名作舞踊』(演劇出版社, 1991)67-68頁)

この舞台は「木下川堤」で、清元の詞章にある「心関屋を跡になし、木下川堤に着きにけり」の関屋の里は現在の足立区関屋町ですが、木下川はどこか物の本を見てもわからないそうです。

累の霊は祐天上人によって成仏したことから、目黒の祐天寺に「累塚」がありますので行ってみることにします。

(2)



祐天寺は東京メトロ日比谷線「中目黒」駅から、歩いて約10分。









本殿



◆累塚







他で一番目引いたのは「子まもり地蔵尊」、境内をぐるっと回って山門へ向かいます。




   
   
(3)

通称『かさね』の本名題『色彩間苅豆』(いろもよう ちょっとかりまめ)は、4代目鶴屋南北ほか作『法懸松成田利剣』(けさかけまつ なりたのりけん)の二幕目序幕として、文政6(1823)年に江戸・森田座で初演されました。


平成7(1995)年4月、国立劇場で4幕9場の通し狂言として上演されました(第193回歌舞伎公演)

発端の返しが「祐天上人霊夢の場」、序幕が「木下川堤の場 」 で浄瑠璃「色彩間苅豆」を清元延寿太夫らが聞かせました。かさね=尾上菊五郎、与右衛門=12代目市川團十郎という配役の忘れがたい名舞台でした。

通しで上演されることは稀ですが、「木下川堤の場 」は『色彩間苅豆』の題で一幕の舞踊として度々舞台にかかってきました。
   
 
お読みいただきありがとうございました。

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(2016年12月17日撮影)
 
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