歌舞伎の舞台名所を歩く

 道成寺

 
(『京鹿子娘道成寺』)
 
 
 (1)
 
『京鹿子娘道成寺』(きょうがのこむすめどうじょうじ)は全篇が見どころ聞きどころで、最初から聞かせます。

花のほかには松ばかり。花のほかには松ばかり、暮れそめて鐘やひびくらん。

はじめて伽藍、橘の道成(みちなり)興行の寺なればこそ、道成寺とは、

名づけたり。山寺の春の夕暮来て見れば、入相の鐘に花ぞ散るらん、

鐘に恨みは数々ござる、初夜の鐘を撞く時は諸行無常とびびくなり。後夜の鐘を撞く時は是生滅法とびびくなり、晨朝(じんちょう)のひびきは生滅滅已(しょうめつめつい)、入相は寂滅為楽とひびくなり、聞いて驚く人もなし、我も五障の雲晴れて、真如の月を眺めあかさん。
(『歌舞伎名作舞踊』(演劇出版社, 1995)88頁)



(2)

道成寺の所在地は和歌山県日高郡日高川町鐘巻1738、「鐘巻」というのも道成寺との関わりに違いありません。8世紀初頭に創建された和歌山県最古のお寺で、ご本尊は国宝の千手観音菩薩とのこと。



JR「和歌山」駅から「御坊」で紀勢本線(きのくに線)に乗り換えて、次の「道成寺」駅で下車します。



案内図があり、迷わずに行けそうです。



歩いて5分ほどで参道に入ります。



石段の左手前に石碑があります。よく読めませんが、石段が62段であることは分かります。

 

石段を上り始めると、



すぐ左手にこんな案内板があります。



仁王門に着きます。



門をくぐると、正面が本堂です。



少し左に行くと、今通った仁王門が「重要文化財」で、

 

「七不思議」の一つであることが分かります。



本堂でお参りをします。このお寺では堂内の写真撮影もOKです。



左の柱にある長い文字、最初だけは分かります。



時計回りに回ろうと進みますと、左の角の上には、「道成寺」を演じた役者が奉納したと思われる額入りの写真で一杯です! 





軸装の芝居絵もありますが、鳥居派の絵看板の原画でしょうか。右下には「昭和48年襲名興行 五代目中村富十郎襲名」と書かれています。この公演はぼくも歌舞伎座で観ましたので、懐かしくなります。

 

六代目菊五郎の舞扇も奉納されています。



御本尊のちょうど後ろに当たる位置には衣装も展示されていますが、ガラスケースなどに入っているわけでもなく、汚れないのかなぁ、などと余計な心配をします。売店もあり、芝居絵の絵葉書を2枚求めます。


正面に戻り、仁王門の方を見ると、枝垂桜が何とも言えません。

 

本堂を下りて、境内を回ります。仁王門の方の奥には謡曲と道成寺についての説明板があります。歌舞伎は謡曲から来たものも少なくなく、このような説明板はあちこちで見ます。

  

三重の塔の手前に石垣で囲まれた石碑が目に入ります。



近づくと「安珍塚」です。「安珍と釣鐘を葬った場所」とあります。釣鐘は、何かの戦の時にどこかに持ち去られたとかで、今はありません。

 

この近くに「鐘巻之跡」と刻まれた石碑があります。住所にある「鐘巻」はここに由来するようですが、焼かれた鐘楼のあった場所ということでしょうか。



本殿の左後ろに行くと、こんな説明板があります。



蛇体となった清姫、道成寺駅のすぐ近くの古美術商でしたでしょうか、店の前には古木でつくられたこんな作品が置いてありました。



また、駅のプラットフォームの待合いの壁には、こんな絵が描かれていました。

  

満開の桜は、そんな怖い話があった場所ということをかき消しているようです。 

  

少し離れて、仁王門・三重塔・本殿を眺めます。

  

振り返ると、枝垂桜の下にこんな案内板があります。

 

ここはまたの機会にすることにして、道成寺を後にします。満開の桜の時期に、長年念願であったこのお寺に来ることができた幸せをかみしめながら…。

 


(3) 

石段を下りてすぐ右手に進み、近くにあるという「蛇塚」を目指します。左右が田んぼの電柱の下に「きよひめ…」とある石碑がありますが、よく読めません。  



あちこち歩いても、なかなか見つかりません。何人かに聞いてやっと分かります。「へびづか」と思っていたら、「じゃづか」で、それは道成寺団地入口の看板の左、通りの突き当りのところにありました。

 

昔ここは入り海で、安珍を焼き殺した後で投身した場所と伝えられているとのことです。
お酒などが添えられています。近くの人か、自治会でそうしているのでしょうか…。 

   

帰り道、参道に並ぶ店にはいろいろなお土産が置いてありましたが、その中の「釣鐘饅頭」には「清姫様のおすすめ」とあったのには思わず吹き出してしまいました。中のあんは6種類もあり、迷います。
   
   
(4) 
   
歌舞伎舞踊としての様々な道成寺物の初演は元禄期以前に遡るらしいですが、それらを集大成し決定版となったのは、宝暦3(1753)年の江戸・中村座で初世中村富十郎が演じた『京鹿子娘道成寺』とされます。

道成寺の三重塔の右手に「中村富十郎碑」がたっているのは、初代を追悼し敬慕する意味が込められているのでしょう。



    
初代富十郎(服部幸雄『絵で読む歌舞伎絵の歴史』81頁より) 


 「女方の花とされる、代表的な大曲の舞踊」(郡司正勝)である『京鹿子娘道成寺』、昭和期には六代目中村歌右衛門・七代目中村芝翫・四代目中村雀右衛門・五代目中村富十郎といった名女形が得意として、しばしば舞台にかかりました。坂東玉三郎もたびたび演じていますが、どの舞台も「素晴らしい!」の一言に尽き、名優たちの至芸を堪能しました。  


『京鹿子娘道成寺』 書割 (部分)
 (中山幹雄『歌舞伎絵の世界』口絵より)


歌舞伎座 絵看板(部分)鳥居清光画
 
 
(5) 
   
『京鹿子娘道成寺』だけでなく、道成寺縁起にかかわる伝説・後日譚を内容とする一連の曲があり「道成寺物」と呼ばれます。

2016(平成28)年9月、国立劇場は開場50周年記念の舞踊公演として「道成寺の舞踊」と銘うって、様々な道成寺を舞台にかけました。 

 国立劇場公演ちらし  

また同年の12月には、五人で踊り分けるという特別な演出の『京鹿子娘五人道成寺』が歌舞伎座の舞台にかかりました。五人の白拍子花子には、坂東玉三郎・中村勘九郎・七之助の兄弟・中村梅枝・中村児太郎が扮しました。なおこの舞台は「シネマ歌舞伎」として、翌年に全国の映画館で上演されました。 

   シネマ歌舞伎ちらし

 2018(平成30)年3月歌舞伎座(昼の部)、「四世中村雀右衛門七回忌追善狂言」に、5代目は『男女(めと)道成寺』を選び、松緑(白拍子桜子)を相手に踊りました。

同年9月、歌舞伎座130年秀山祭には、新作歌舞伎『幽玄』が舞台にかかり、「羽衣」「「石橋」に続くのが「道場寺」でした。天女・白拍子花子は坂東玉三郎。


最後に余談を一つ。「引き抜き」も見せどころの一つですが、こんな話があります。  
  
  初のニューヨーク公演で歌右衛門が『娘道成寺』を踊ったとき、アメリカのある新聞記者が「途中で何枚も着物を脱ぐのは、脱皮を繰り返して蛇身に近づくためか」と聞いたそうだ。現地製作のパンフレットには、蛇の執念が強調されていたというから無理ないと思うが、これはぜんぜん違うのだ。    
(『歌舞伎名作舞踊』(演劇出版社, 平成7年)86頁) 
   
 「物事を合理的に論理化してしまう癖のある欧米人」(津)らしいと言えば言えますが、面白い見方と思います。


振り返ってみると、実に多くの「道成寺」が楽しませてくれましたし、間違いなくこれからも楽しませてくれることでしょう。  


 
 初代歌川豊国(1769 - 1825)「道成寺」 (お寺で求めた絵葉書の一枚)
   
   
   
お読みいただきありがとうございました。 
 関連で「日高川」「妙満寺」もご覧ください。
 
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(2018(平成30)年3月25日撮影)
 
 
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