歌舞伎の舞台名所を歩く

  浜離宮
『元禄忠臣蔵』「御浜御殿豊綱卿」


 (1)

真山青果の名作『御浜御殿豊綱卿』の上の巻、この場の指定です。

甲府家浜手屋敷(のち将軍家に帰してお浜御殿といい、明治後、浜離宮となる)のうち、松のお茶屋の御腰掛というところ。

時は元禄十五年、三月上巳(じょうし)節句のころ――。

舞台に見ゆるところは、海潮(しお)入りの大地に面したる東屋風の茶亭(さてい)であって、俗にその辺をお塩浜辺ともいう。茶亭の下手には御亭山(ごていやま)と称するなだらかなる木阜(こやま)あり、松楓などの茂りあう間に、折からの山桜、チラホラと咲きはじめたるが見ゆる。

上巳節句」は「三月三日。女の児を祝う節句で、雛祭(ひなまつり)をする」、「木阜」は「阜は岡、土地の小高い所で、山というには低すぎるので、この字を用いる」と脚注にあります。(『歌舞伎オン・ステージ 御浜御殿豊綱卿』(白水社, 2002)第23巻、24頁)

綱豊卿に奉公し、愛されているお喜世は、赤穂浪士の一人富森助右衛門に頼みごとをされます。

お喜世 吉良さまもお伴においであそばすとなれば……浅野浪人たる兄などの、立ちまわるべきではござりませぬ。きっぱり断りいうて、帰します。(と立ちあがる)

綱富 待て。したが、そちの兄は、まことそちへ向かって、今日のお庭遊びを、隙見させてくれと願ったに相違ないか。(何か所存あるらしく、声をひそめて)赤穂浪人のそちの兄が、まこと今日の庭遊びを、覗かせてくれと頼んだのか。

お喜世 兄とは申しながら、血筋の者ではござりませぬ。それではもしや、わたしを謀(はか)って……。(と、不安そうに、唇をかむ)

綱富 (三たび同じことを繰り返して)喜世、赤穂浪人富森助右衛門が、今日の隙見をそちに頼んだと申すか。(鋭くいう)

お喜世 (ただハラハラして)はい――

綱富 (熟慮のうえ、決断、ガラリと調子をかえて)いや大事ない。躬(み)が許したといえ。その助右衛門とやらに、今日はゆっくり、隙見をさせてやれ。。

江島 (おどろきて)もし殿様!

お喜世 それでも、もし間違いなどがござりましては、それこそ取りかえしのつかぬ――

綱富 いや大事ない。躬が許した。座敷へはならぬが、生垣の間なり、遠く吉良殿の面体を見覚えるくらいは、大事あるまい。せっかくの願いじゃ、許してやれ。

江島 でも、殿さま、せめて表方お役人にお話あそばして上で――

綱富 (それをかぶせるように)いや、大事ない、大事ない。切腹は内匠頭ひとりの命じゃが、あとに残された家中の数は三百有余人、みな今日の路頭に迷うている。妻子を離れ、我が身を恥じしめ 悲しく、つらき日を送っているのだ。その家来どもの身になれば、殿を殺した仇がたき、上野介の面体ぐらいは、見おぼえておきたくもなるだろう。また面体見知らず、そのままでは――まさかの時のその場になって、困ることもあるだろう。

吉良殿の面体知りたいというのは、彼らにまだ、侍ごころが失せぬ証拠、(我にもあらずほほえみながら)彼らも、去年このかたの辛労じゃ。心ゆくまでトッックリと、上野介の面体を――いや、女どもの戯(ざ)れ遊びを、ゆっくり見物するがよいと、わしの言葉を伝えておけ。

お喜世 はい。

綱富 ただ一つ、念を押しておくことは、隙見以上はならぬぞ。座敷近(ちこ)うはならぬぞ。人の不意を襲うのは、武士たるものの恥じるところだ。わしがそういうていたと、それとなく聞かしておけ。(同上、62-64頁)


(2)

浜離宮へ行ってみます。




東京メトロ銀座線「新橋」駅で下車し、歩いて15分ほどで着きます。










 

 浜離宮のパンフレットより


 春の七草


 正月縁起花壇



































 


   
(3)

『御浜御殿綱豊卿』は雑誌『キング』の昭和15(1940)年春の特別号に発表されました。

『元禄忠臣蔵』のこの一篇、通しあるいは半通しでは必ず含まれるようですが、単独でも上演されてきました。

綱豊卿を当たり役にしているのは片岡仁左衛門で、最近では平成28(2016)年11月の歌舞伎座で演じました(お喜世は 中村梅枝、富森助右衛門は7代目市川染五郎(現・松本幸四郎))。

若手俳優も東京や関西の劇場で演じています。


   
お読みいただきありがとうございました。

 「忠臣蔵を歩く」もどうぞご覧ください。

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(2018(平成30)年12月14日)
 
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