歌舞伎の舞台名所を歩く

  しのぶ塚・きょうげん塚
(百花園)


 (1)

河竹黙阿弥の「しのぶ塚」と「きょうげん塚」が向島百花園にあるというので、行ってみます。



東武スカイツリー線「東向島」で下車、歩いて10分ほどで着きます。


都立文化財9庭園の一つで、「江戸の町民文化が花開いた文化・文政期(1804-1830)に骨董商を営んでいた佐原鞠塢(さはらきくう)が、交遊のあった江戸の文人墨客の協力を得て、花の咲く草木鑑賞を中心とした花園として開園されました」とパンフレットにあります。

ちなみに、百花園を描いた一枚です。


 緒方月耕「美人名所合 隅田河百花園七草」
 (『国芳イズム 歌川国芳とその系脈』(青幻舎, 2016)172頁より)


入園料は一般150円、65歳以上は70円、信じられないくらいの安さです。



扁額の文字は蜀山人(寛延2(1749)年 - 文政6(1823)年)とのこと、良い字です。



花の案内を見ると、年中何かが咲いています。



  
 
(2)

庭園の地図を見ると、30 くらいの碑があちこちにたっていますが、「わ」が初代河竹新七追善しのぶ塚の碑、「か」が二代河竹新七追善狂言塚の碑です。



さっそく行ってみると、二つの碑が左右に見えます。




◆しのぶ塚

池に架かる短い橋を渡るとしのぶ塚があります(俳句と絵が添えられた絵行灯、なかなか良いものです)。





碑文を読んでみます。





「二世河竹新七記」とあるのは、黙阿弥になる前名で、初代の河竹新七を追善して建立したのでした。

文中に「隅田川」「二面」「荵売」と出てきますが、破戒僧・法界坊の霊が野分姫の霊と合体し、振り袖姿の荵売りとなって現れる『隅田川続俤』の大切所作事「双面水照月」のことです。この所作事を書いたのが、初代河竹新七、初演が初代中村仲蔵でした。

初代は寛政7(1795)年に49歳で亡くなり、黙阿弥は天保14(1843)年に28歳で二代目を襲名しました。ただ黙阿弥は初代の弟子だったわけではなく、周囲に勧められてとだえていた名を復活して相続したとのこと。

この碑を建てた明治13(1880)年は、黙阿弥が引退して新七から黙阿弥になる前の年のことでした。
 
 

◆きょうげん塚

椿の木の横に建つのが「きょうげん塚」です。







こちらも碑文を読んでみます。





この碑を建てた長女いと子、三世河竹新七、門人の竹柴其水の名が最後に刻まれています。建立は明治27(1894)年11月、黙阿弥が亡くなった次の年のことでした。

ちなみに黙阿弥の墓地は源通寺(中野区上高田)にあります。
 
 


(3)
 
百花園には七福神の一つ、福禄寿が祀られています。



入口の右にここに祀られている福禄寿の碑がたっています。





福禄寿尊堂は正月に開かれます。二三度、七福神詣でお参りをしたことがあります。


 

この左につる物(ヒョウタン、ヘチマなど)の棚があり、



その近くにくろがねもちの木がきれいな実をつけています。



毎年9月の中旬から萩まつりが開かれ、園内には萩のトンネルが!




晩秋には黄櫨(はぜのき)の紅葉が見ごろを迎えます。




様々な花々が目を楽しませてくれますが、「だんぎく」というのがあります。



勿論菊の一種なのでしょうが、歌舞伎ファンとしては「団菊」を連想してしまいます。そして歌舞伎座5月の団菊祭を。

園内をぐるりと回って心地よい疲れを感じながら、かき氷(450円)を食べて一休みします。都内にこのような庭園があるのは何とも嬉しく、また有難いことです。




黙阿弥の芝居はかからない月はないくらい頻繁に上演されています。次はどの劇場でどの芝居を観ることができるか、黙阿弥得意のどの七五調の名せりふを聞くことが出来るか、楽しみです。



お読みいただきありがとうございました。

 ちなみに黙阿弥のお墓は源道寺にあります。河竹黙阿弥墓所をご覧ください。

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(2018(平成30)年9月29日)
 
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