歌舞伎の舞台名所を歩く

 市村座跡
 
二長町時代の市村座跡の所在地は台東区台東一丁目五番。天保の改革の一環として、天保13(1842)年に浅草の猿若町へ、そして明治25(1892)年にこの地に移転したのでした。

 (猿若町の市村座についてはこちらをご覧ください。)

地下鉄日比谷線の「秋葉原」駅で下車します。その場所は今は凸版印刷の敷地というので、地図で位置を確認します。
5分ほど歩いて、凸版印刷の大きなビルはすぐにわかります。 
このビルに向かって左隅に石碑があります。
  
説明板です。 
 
この下に英文の説明もあります。
   
火事で消失したことについて、劇作家の岡本綺堂が書いています。
  鳥越座をほろぼした火の神は、さらに下谷二長町(したやにちょうまち)の市村座を焼いた。それは三月二十八日の午後六時五十分であった。これも自火ではなく、和泉町の藤堂邸から燃え出した大火のために類焼の禍に逢ったのである。市村座は元地の猿若町(さるわかまち)から移転して、昨年の十一月に新築開場式をおこない、(中略)華々しく開場したのであったが、それから半年も経たないうちに忽(たちま)ち灰になってしまったのは、鳥越座以上の悲しむべき出来事であった。
(岡本綺堂 『明治劇談 ランプの下にて』(岩波文庫, 1993) 194頁) 
   
また「二長町時代」と呼ばれた黄金期については、久保田万太郎が七代目坂東三津五郎について書いた文が、当時の状況と、今でも舞台にかかる舞踊劇のことが分かって興味深く読めます。
明治四十年以降、かれは、おとうと守田勘弥とゝもに、下谷二丁町の市村座に居附いた。田村成義によつて若手歌舞伎の一座が組織されたからである。尾上芙雀(後に菊次郎)、中村駒助(後に大谷友右衛門)、尾上幸之助(後に紋三郎)たち、二十代のはつらつとした青年たちばかりがその一座に属し、しかもかれのえた地位は「座頭」だった。

こゝに、はじめて、かれは安定した。……といふことは、後にその一座に、六代目菊五郎と、中村吉右衛門とが上置(うはお)きとして加入し、漸次、明治大正の演劇史に重要なページを占めるにいたった、いふところの "市村座時代" をつくりだしたあとあとまで、彼の「座頭」としての位置にゆるぎはなかつたから。……そして、また、かれとしても、いつかそれだけの貫録を身につけたのである。……ことほど、ながい年月の苦労は、決してかれに、無駄ではなかったのである。

と同時に、逆に、菊五郎をえたことによつて、所作事、あるひは、浄瑠璃所作事に於けるかれの舞踊力は、従来よりも、一段と高く評価されるにいたった。なぜなら、菊五郎の、一応、自由に、奔放にみえる技法に対して、かれのそれは、あくまで丹念であり、あだやかであり、そして堅実だったから。……

観衆は、いまさらのように、その技術の正しさに目をみ張った。……菜の花や、月はひがしに、日は西に。……まことにいみじき神の摂理の、しかも、菊五郎とかれと、両者、相携へての新作の舞踊劇…… "身替座禅" なり、"棒しばり" なり、"太刀盗人" なりの……が、いかほど、嘗ての日の市村座繁昌のもとゐをなしたことか……

(久保田万太郎「七代目坂東三津五郎」、戸板康二編 『日本の名随筆 芝居』 (作品社, 1991)所収(128-29頁) 〔点(全角)原文のまま〕
   
 (2)
   
説明板にある「千代田稲荷神社」へも行ってみます。 
中に入ります。
このお稲荷さんについても詳しく書かれていて、市村座との深い関わりが分かります。
   
市村座は昭和7(1932)年に焼失して再建されることはありませんでしたが、現在の歌舞伎に大きな遺産を残したと言えます。特に歌舞伎舞踊において。
   
…明治41年から六世尾上菊五郎・初世中村吉右衛門を迎え、経営者の田村成義の手腕により、〈二長町時代〉と呼ばれる大正・昭和の歌舞伎の頂点をつくりあげた。現代の歌舞伎も、その影響下にあるといってよい。
(服部幸雄・他編 『歌舞伎事典』 (平凡社, 1983) 「市村座」の項)
 
          
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(2018(平成30)年5月7日)
 
 
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