歌舞伎の舞台名所を歩く

  岩屋寺
大石良雄山科閑居址

『仮名手本忠臣蔵』九段目


 (1)

『仮名手本忠臣蔵』九段目は「山科閑居の場」、屈指の大作、義太夫の大曲です。

この場の主人公加古川本蔵は、二段目で、師直を切ると言ってきかない主人若狭之助に、松の枝を切って落とし、このようにおやりなさい、と進言します(「建長寺」参照)。その裏で師直に賄賂を贈ります。

そして三段目「松の間」では、師直に切りかかろうとする塩谷判官の両肩を抱きとめて止めます。

娘の小浪は、大星由良之助の息子力弥と恋仲。本蔵の妻・戸無瀬はなさぬ仲の娘小浪を連れて、力弥に添わせるべく山科へやってきます。主人が塩谷判官である大星の妻お石は、敵に味方した本蔵の娘を嫁にするのを拒絶します。

祝言を断られた戸無瀬は小浪の首を打とうとします。

すると、お石が現れ、一人娘を殺してまでと思う貞女の志に祝言させましょう、と言います。しかし「聟引出に本蔵殿の首をこの三宝にのせてほしい」と言います。びっくりする戸無瀬と小浪。

そこへ現れた本蔵…、わざと力弥に槍で刺されます。

本蔵 相手死なずば切腹にも及ぶまじと抱き留めたは、思い過した本蔵が、一生の誤り。娘が難儀と白髪(しらが)のこの首、聟殿に進ぜたさ。女房娘を先へ登して、媚び諂(へつら)いしを身の科に、お暇を願うてな、道を替えてそち達より二日前に京着。若い折の遊芸が、役に立った四日のうち。こなたの所存を見抜いた本蔵、手にかゝれば恨みも晴れ、約束通りこの娘、力弥に添わせて下さらば、未来永劫御恩は忘れぬ。コレ、手を合わせて頼み入る。忠義ならでは捨てぬ命、子ゆえに捨てる親心、推量あれ大星どの。

               (中略)

由良 ヤアヤア、本蔵どの、君子はその罪を憎んで、その人を憎まずといえば、縁(えにし)は縁、恨みは恨みと格別の沙汰もあるべきに、さぞ恨みに思われんが、所詮この世を去る人、底意をあけて見せ申さん。
(『名作歌舞伎全集』第2巻、108-109頁)

本蔵は師直屋敷の絵図面をわたし、由良之助は仇討の計画を打ち明けるのでした。

そして幕切れ、

力弥 本蔵どのの御芳志により、敵地の案内知れたる上は、泉州堺の天川屋義平方へも通達し、荷物の工面つかまつらん。

 と聞きもあえず、

由良 なにさ、なにさ、山科にあること隠れなき由良之助、人数集めは人目あり。ひとまず堺へ下って後、あれからすぐに発足せん。その方は母嫁(おやこ)、戸無瀬どの諸共に、後の片づけ諸事万事、何もかも心残りのなきように、ナ、明日の夜舟に下るべし。我は幸い本蔵どのの、忍び姿を我が姿。

 袈裟うちかけて編笠に、恩を戴く報謝返し、未来の迷い晴らさんため、

 トこのうち由良之助、よろしく身拵えして、

今宵一夜は嫁御寮へ、舅が情の、

 恋慕流し、歌口しめして立ち出ずれば、かねて覚悟のお石が歎き、

お石 御本望を。

 とばかりにて、名残り惜しさの山々を、言わぬ心のいじらしさ。

小浪 もうし、父様いのう。

 呼べど答えぬ断末魔、親子の縁も玉の緒も切れて一世の浮き別れ、わっと泣く母泣く娘、ともに死骸に向かい地の、回向念仏(ねぶつ)は恋無情、出て行く足も立ちどまり、六字の御名(みな)を笛の音に、

 ト本蔵苦しみ、両人介抱する。由良之助花道にかゝり尺八を吹く。このうち、お石、手水鉢の柄杓(ひしゃく)にて、力弥と小浪に水盃をさせる。本蔵落ち入る。

お石 モシ。

皆々 南無阿弥陀仏。 (同上、111-12頁)

そして幕外になり、三重にて、由良之助は尺八を吹きながら花道に入ります(あとシャギリ)。



三世歌川豊国「忠臣蔵九段目」(国立劇場絵葉書より)


名取春仙「十一代目片岡仁左衛門 九段目の本蔵」 大正14(1925)年~昭和4(1929)年
(「粋と艶、旅のあこがれ」展(四日市市立博物館、平成12年4月)図録25頁より)

 
(2)

九段目の場となった山科、大石内蔵助縁の尼寺・岩屋寺(いわやじ)に閑居の跡があります。

山科駅からバスの便がありますが、京都市営地下鉄東西線の「椥辻(なぎつじ)」駅で下車し、新十条通りを西に行きます。



左に入るのが早くて遠回りになってしまいましたが、入口らしい通りに出て、



ようやく岩屋寺に着きます。



ご由緒をざっと読みます。



石段を上り、「山科義士まつり」のポスターが貼ってある門を通ります。



すぐ正面に本殿があり、参拝します。

ここには浅野内匠頭と四十七士の位牌、遺品等があるそうです。



右に続く建物、梅の木でしょうか、そして石灯籠、他には茶室などがあります。



この灯籠には、桃中軒雲右衛門(とうちゅうけん くもえもん)と刻まれていて、浪曲界の大看板の寄進であることがわかります。



ちなみに真山青果の戯曲に『桃中軒雲右衛門』があり、昔映画化されました。

江戸の細川邸に預けおかれた時に詠んだ歌が書かれていますが、残念ながら読めません。「大石太夫」となっていて、祇園で遊興にふける蔵之助を連想させます。



   

境内を見て、階段を下ります、町内会の方たちでしょうか、境内のあちこちを掃除しています。



階段の左にはお稲荷さん、



また近くには、山科神社があります。



そして、石段の手前右の傾斜のある一面に、「山科閑居址」の石碑が建っています。



石のベンチがいくつもあり、公園のようです。



奥の方に十三重搭が見えますので、行ってみます。





「大石良雄君隠棲舊址」の石碑は、明治34年建立とあります。



奥の方には、大石良雄遺髪ノ塚というのもあります。





山科のこの場所が如何に大石内蔵助縁の地であるか、を肌で感じます。そして、忠臣蔵の世界に浸らせてくれます。


ここにはまた忠臣蔵を詠んだ色々な句碑・歌碑があります。ほとんど読めませんが(説明板があると助かりますね。もしかすると岩屋寺に、何か印刷物があったのかも知れませんが…)、その中に、



   義士祭能(の)申し訳ほど雪降れり (でしょうか…)

の一句、

山科は近づく義士まつりの準備におわれているようでした。



   
(3)

『仮名手本忠臣蔵』の九段目は、歌舞伎座で昼夜通しで上演される時でも含まれず、滅多に見ることはできません。

ぼくが観た中では昭和59(1984)年11月の顔見世で先代の片岡仁左衛門の本蔵が強い印象を残しました。平成13(2001)年3月には現・仁左衛門が好演しました。

国立劇場では昭和61(1986)年に開場20周年記念、また平成28(2016)年には50周年記念の公演で12月に上演されました。


もう一つ忘れられないのは、昭和49(1974)年11月、国立劇場での二段目・八段目・九段目と加古川本蔵で通すという珍しい公演です。初めて2度観に行きました。

本蔵は8代目坂東三津五郎、戸名瀬に6代目中村歌右衛門、小浪に中村松江(現・中村魁春)という配役でしたが、三津五郎にとって東京での最後の舞台となってしまいました。というのは、翌月京都・南座で主演中にフグに当たって帰らぬ人となったからです。

食通で懐石料理まで料理できる腕をもっていた博学の役者が、フグによる死を迎えるとは! 惜しんでもあまりあります。


 ※

ちなみにもう一つの『山科閑居』があります。初代中村鴈治郎が選定した「玩辞楼(がんじろう)十二曲」の中の『碁盤太平記』です。

山科に閑居している由良之助に、吉良邸の見取り図を、碁盤の上に一つづつ碁石を置きながら教えるところが外題の由来です。

昭和50(1975)年の正月に歌舞伎座の舞台にかかり、「初代中村鴈治郎の大きな傑作」(山口廣一)であるこの芝居を、2代目が初役で演じました(『演劇界』2月号(22-23頁)に舞台写真が載っています)。ぼくが観たのはこの時の一度だけですが、その後は上演されているのでしょうか…。
   


お読みいただきありがとうございました。

  「歌舞伎の舞台名所を歩く」 HOMEはこちらをどうぞ。 
(2018(平成30)年7月13日)
 
inserted by FC2 system