歌舞伎の舞台名所を歩く

  大長寺
小春・治兵衛の比翼塚

『心中天網島』


 (1)

近松門左衛門作『心中天網島』(しんじゅう てんのあみじま)、通称「紙治」は、享保5(1720)年10月14日の夜、「大阪網島の大長寺で、天満お前町の紙商治兵衛と、曾根崎新地紀の国屋の抱え小春とが情死を遂げた。このホット・ニュースを直ちに脚色したもの」(戸板康二)。

上の巻「河庄の場」、治兵衛の花道の出です。

天満に年経る千早振る、神にはあらぬ紙様と、世の鰐口にのるばかり、小春に深く大幣(おおぬさ)の、腐り合うたる御注連縄(みしめなわ)、今は結ぶの神無月、堰(せ)かれて逢われぬ身となり果て、あわれ逢瀬の首尾あらば、それを二人が最期日と、名残の文の言い交わし、毎夜々々の死覚悟、魂ぬけて、とぼとぼうかうか身を焦がす。

 ト向うより治兵衛、着流し一本差し、頬冠りにて出て来り、花道にて、

治兵 今向うの煮売屋で、声高で小春が噂、待客で河庄方。どうぞ首尾して逢いたいものじゃナア。
 (『名作歌舞伎全集』(創元社, 1969)第1巻、198頁) 


名取春仙「河庄の治兵衛」
「初代中村鴈治郎による「心中天網島」の紙屋治兵衛。鴈治郎が上演のたびに工夫を重ねた当たり役であり、「頬かむりの中に日本一の顔」と讃えられた。近代の生んだ絵師・春仙による、華麗な大首絵である。〈山梨県立美術館蔵〉
(中山幹雄『歌舞伎絵の世界』(東京書籍, 1995)86頁より)


(2)



大阪JR東西線「大阪城東詰」で下車、公園の横から右に入り、何度か聞いて大通りに出ます。バス停「東野田停留所 」の先に大長寺はありました。







門は閉まっていますが、勝手口から入ります。



左の建物にお寺の名がありますが、およそお寺らしくはありません。中にはいりますが、声をかけても返事がなく御朱印は頂けません。





門のところに戻って、いくつかある石碑の中に小春治兵衛の比翼塚を見つけます。



◆紙治 小春 墓









正面、左と右からも見てみます。










手前にもお墓があり、説明板があります。講談に出て来るそうですが、知りません。でも「誰が袖乙吉」とは何とも良い名前です。





   

 
(3)

『心中天網島』の初演(人形浄瑠璃)は享保5(1720)年、大阪・竹本座。

昭和49(1974)年、国立劇場で3幕5場の通し狂言として上演され(第66回歌舞伎公演)、大詰が「網島大長寺の場」でした。

配役は紙屋治兵衛=2代目中村鴈治郎、紀の国屋小春 =2代目中村扇雀(現4代目坂田藤十郎)、治兵衛女房おさん=5代目片岡我童(14代目片岡仁左衛門、歿後追贈)。


   
関連で「安養寺 紙治おさんの墓」もご覧ください。

お読みいただきありがとうございました。

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(2019年5月17日撮影)
 
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