歌舞伎の舞台名所を歩く

  高津宮
『夏祭浪花鑑』


 (1)

並木千柳・三好松洛・竹田小出雲作『夏祭浪花鑑』(なつまつりなにわかがみ)の「夏祭」は、大阪・高津宮(こうづぐう)の夏祭りを指します。



大阪メトロ「谷町九丁目」駅で下車します。 交差点を曲がって進むと、真言宗の報恩院というお寺があり、不動明王が見えます。



通りの向かい側に高津宮の鳥居がたっています。



参道は結構長そうです。



参道にはいくつかの石碑がたっています。



百人一首の序歌として覚えた歌です(競技百人一首を主催する日本かるた協会が、そう定めていて、競技はこの一首の朗読から始まります)。



次には日本画家の石碑です。





ここでこのような記念碑に会えるとは全くの予想外で嬉しくなります。北野恒富(明治13(1880)年 - 昭和22(1947)年)は何度か展覧会で見たことがありますが、大阪らしい一枚をご覧ください。


宝恵籠」昭和6(1931)年頃 大阪府立中之島図書館蔵
〔宝恵籠(ほえかご)とは、「正月10日今宮戎の十日戎の祭に南の新地(宗右衛門町)の芸妓連が行う参拝行事。駕籠衣装と称し、新調の黒紋付・裾模様の盛装をした芸妓が紅白の縮緬(ちりめん)で駕籠を飾り立て、幇間(ほうかん)を大勢先頭に立て、舁手(かきて)一同"ホエカゴホイホイ"とはやし立て、あでやかな練込みを行い、見物の目を楽しませる。」(東京堂出版・年中行事事典)〕
(『現代日本美人画全集』第3巻(集英社, 1979)15, 113頁より)


やっと階段のところに来ます。左右の大きな常夜燈を通って上ります。



上りきると、左右の大きな木の向こうに本殿が見えます。



手を合わせます。



右手には高倉稲荷があります。高津宮は「こうずはん」、高倉稲荷は「高倉はん」と地元の人は親しみを込めて呼ぶそうです。



桂米朝さんが、このお稲荷さんの使いの「高倉狐」という噺を紹介しています。東京の「王子の狐」の大阪版で、今は演者はないそうです(『米朝ばなし』(講談社文庫) 64頁)。

落語といえば、ここは「高津の富」の舞台になっていますが、本殿の左に行くと、「五代目桂文枝之碑」が建っています。



この噺家は、たぶんラジオやCDでも聞いたことはないと思いますが、上方落語の名跡であることぐらいは知っています。



こちらにも階段があります。



説明板には、面白いいわれが書かれています。



その右にも階段があり、こちらにも説明板があるのですが、





縁結びと縁切りの階段が並んでいるのは、珍しいでしょうし、面白いではありませんか。

こちらの階段を下りて、高津宮を後にします。




 
(2)

『夏祭浪花鑑』の序幕「住吉鳥居前の場」に続く「三婦内」の場は、高津宮の宵宮という設定で、「浪花の夏の風物詩」高津祭は毎年7月17日と18日に開催される大祭です。

「三婦内」の次が、この芝居のクライマックス「長町裏殺しの場」です。

神輿太鼓で幕があくと、義平次が、駕籠屋を先に追い立てて出て来ます。そこへ団七が後を追って来て、言い争いになり、終いには…。

 
義平 人殺し人殺し。

  ト駆け廻るゆえ、団七もびっくりして、また義平次の口を押え、思入れあって、

団七 こりゃモウ九郎兵衛が絶体絶命、舅どの、堪忍さっしゃれ。

  ト言いながら泥船へ切り込み、花道よき所へ行き、キッと見得。
  これより鳴物になり、両人よろしく立ち廻りあって、トド止めを刺す。
  このキッカケよろしく、うしろ灯入りの花車(だし)など、祇園囃子にて通る。
  団七、思入れあって、死骸を片付け井戸にて水を汲み、体を洗う事よろしく、
  脇差の鞘を尋ねる。よきところへ上手より皆々、神輿をかつぎ出て来り、

皆々 ちょうさやちょうさや、ようさようさ。

  ト言いながら舞台を廻り、またよき所にて花道へ入る。団七この中へ交わり、
  舞台にて辷(すべ)り、尻居に撞(どう)となりて思入れ。本釣鐘(ほんつり)。
 
  (『名作歌舞伎全集』第7巻、44頁)



歌川国芳「江戸名所見立十二ヶ月 六月 山王御祭礼 団七九郎兵衛」
 「12ヶ月にちなむ江戸の名所と、歌舞伎の登場人物や役者を掛けたシリーズの一枚だが、この図は六月。つまり大阪の夏祭りに中で繰り広げられるドラマと、江戸の天下祭、山王祭を引っ掛けたわけである。」
(『歌川国芳 絵画力』府中市美術館編(講談社, 2017)22-23頁より)


[左]歌川国芳「武蔵野秋月」
[右]三代歌川豊国(国貞)「梨園侠客伝 団七九良兵衛 かわら崎権十郎」 
(『江戸の悪』(青幻社, 2016)223, 221頁より)

 
「わっしょい、わっしょい」ではなく、「ちょうさやちょうさや、ようさようさ」の掛け声に大阪らしさを感じます。

団七が義平次を手にかける殺し場で、舞台後ろの板塀の向こうを高津祭の山車が通るのが見えます。

人々が喜びにあふれる祭りと悲惨な殺しの対比! 作者は意識したに違いありません。巧みな作劇と言えます。

歌舞伎の美学を見せる「殺し場」について、演劇評論家で劇作家でもあった野口達二はこう書いています。
 
  …、泥の中を這いまわっての『夏祭』の「殺し場」などは、まさに無惨絵の世界であった。

その無惨絵を、空間化して見せるのが演出である。ツケ(筆者注:ルビあり)の音、本釣の音、端歌地などの下座の囃子がはいって、それを地(ルビ)に舞踊的な緩やかな動作で、殺す者・殺される者が絡み合う。死、殺意、そういったものにおののき、興奮する人間極限の表情や動作を美しく、官能へ訴える妖しい戦慄……、そんな表現に置き換えようとする。『夏祭』の団七と舅(しゅうと)義平次の、追いつ追われつ、カドカドで絵のようにきまる見得などは、それをうなずかせて十分なものだ。歌舞伎ほど入念に殺しの情景を見せる舞台は、おそらく、他に類が無いに違いない。
(『歌舞伎再見』(岩波書店, 1983)64頁)

そしてこのページに一枚、次のページに4葉の舞台写真(吉田千秋撮影)を載せています。



演劇評論家だった戸板康二は

    裸体でいる団七だけに、この役は体格のいい俳優に限る。
    (『名作歌舞伎全集』第7巻、8頁)

と書いていますが、団七は当代では中村吉右衛門にとどめをさすと云ってよいでしょう。もっとも他に演じる役者は思い浮かびません。

吉右衛門の当たり役の一つで、何度か演じていますが、平成30(2018)年6月、歌舞伎座の夜の部の舞台にかかり、中村吉右衛門(団七)・中村雀右衛門(お辰)・尾上菊之助(お梶)・中村錦之助(徳兵衛)・中村歌六(釣船三婦)・嵐橘三郎(義平次)らが出演しました。
   

 『夏祭』の初演等、舞台については、序幕がこの神社の「鳥居前」と設定されている「住吉大社」をご覧ください。



お読みいただきありがとうございました。

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(2018(平成30)年7月1日)
 
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