歌舞伎の舞台名所を歩く |
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『夏祭浪花鑑』『野晒梧助』 | |
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並木千柳・三好松洛・竹田小出雲作『夏祭浪花鑑』(なつまつりなにわかがみ)、通称『夏祭』の序幕は「住吉鳥居前の場」です。 喧嘩の科で牢に入っていた団七が、鳥居の前で放免になります。獄衣を着て、髪もひげも伸び放題でしたが、髪結床に入って出てくると、見違えるようないい男! そして… 団七と徳兵衛は、床几とそばに立っている開帳札を使ってはでな立ち回りをするところに、お梶が止めに入ります。 |
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お梶 コレ、モシ、料簡さしゃんせ。コレこちの人、こなたも料簡したがよい。 言うをも聞かぬ掴み合い、打ちつ打たれつ止(とど)めても、踏み飛ばすやら蹴飛ばすやら、止めぬ仕ようも並び立つ、辻札取って二人が中へ、横にこかして機転の枷(かせ)。 トお梶、双方を止める立ち廻りあって、トド側なる辻札を取り、両人をよろしく隔てるこなし、 マアマア待って下ださんせ。 団七 イヤ、女房、邪魔せずと、 徳兵衛 怪我せぬうちに、 両人 退いた退いた。 お梶 イヤ、退かれないわいなア。こちの人、今日御放免になったのも元を糺(ただ)せば喧嘩ゆえ、その足腰もまだ固まらず、殊に女房や市松に喜ぶ顔を見せぬうち、往来中のこの達引。腹は立とうが、まアまア待って下さんせ。お前も何か様子は知らねど堪忍して。 (中略) 団七 ムウ、そんなら重々憎い奴。玉島の御恩を着て、礒之丞どのに仇をする、佐賀右衛門が尻持つ恩しらずの畜生め、もうゆるさぬぞ。 とびかかれば、 ト徳兵衛、身を引いて、 徳兵衛 アア、待った待った、その礒之丞どのというのは、備州出のお侍、玉島兵太夫さまの御子息か。ハゝア知らなんだ知らなんだ。この徳兵衛も備中の玉島の生まれ、少しの科で追い払われ、国に残して置いた女房につれてもお主、おれのためにも親方筋。その思惑に琴浦どのに横恋慕する佐賀右衛門に頼まれた、朋輩の尻持ったは大きな間違い。達引どころかおれも共々、お世話をさせて下さりませ。頼む頼む。 ぼっくり折れる吉野尺(ざし)、徳兵衛が一分(いちぶん)の、立て初めとこそ知られけり。団七始終をとっくと聞き、 ト徳兵衛よろしくあって、団七、思入れあって、 団七 砕けて見りゃ他人はねえと、こりゃ珍しい出会いじゃな。その詞に違わずは、なんぞ慥(たし)かな固めをしょうか。 (『名作歌舞伎全集』第7巻、24-25頁) |
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また『野晒悟助』の序幕も「摂州住吉鳥居前の場」で、言いがかりをつけられて困っている娘を二人救うと、二人とも悟助の男ぶりに惚れてしまいます。 次は「住吉境内の場」で話が展開していきます。 |
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歌川国芳「国芳もやう 正札附現金男 野晒悟助」 (『国芳イズム 歌川国芳とその系脈』(青幻舎, 2016)32頁より) |
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住吉大社の場所を調べて、 阪堺電車に乗って 「住吉鳥居前駅」で下車します。 降りるとすぐ目の前です。 参道を進みます。見たこともないような大きな常夜燈があります。 境内の案内図を見て、どう回るか考えます。 御由緒ですが、難しそうなのでカメラに納めて読むのは後にします。 反橋(そりはし)と書かれていますが、太鼓橋とも言うそうです。結構傾斜がありますが、歩きやすいように段になっています。 橋の上から本殿の方が見渡せます。 反橋、横からも見てみます。 手水舎も大きく立派です。 階段の上にすぐ鳥居・門と続く構造は珍しいのではないかと思います。 鳥居前ではみなさん一礼です。 右をみると、中の四棟の本殿はすべて国宝に指定されているのがわかります。「住吉造」と称される古代日本の建築様式とのこと。 まず第三本宮 と右に第四本宮 があります。 手前にある大きな木は保存樹「かいづかいぶき」 で、高さ10.5m、幹回り 2.9m とあります。 第三本宮からお詣りします。 この後ろに第二本宮、 そして第一本宮と一列に並んでいます。 左の方に行くと蔵のような建物が目に入ります。説明を読んで何かわかります。 次は「伊勢神社遥拝所」とありますが、伊勢神宮に関係するにしては質素過ぎる感じがします。 奥へ進んで行きます。末社の一つ楠珺社です。 進んで行くと、何かをしている人たちがいます。 中の小さな石を取ろうとしているのです。 「五」「大」「力」と書かれた石を、必死になって! この石についてこう書かれています。 五大力は体力・知力・財力・福力・寿(命)力を授かる 専用御守り袋(初穂料300円)にお願い事をしながら入れてください 五大力と云えば、並木五瓶作『五大力恋緘』(ごだいりきこいのふうじめ)を二度ほど観たことがありますが、昔のことで筋は思い出せません。 向こうに見えるのは重要文化財の石舞台、 これはウサギで、説明を読んで触ってみます。 傾いた松をながめて門を出ます。 左に行くと、太鼓橋がきれいに水に映って見えるところがあります。鮮やかな朱色が一段ときれいに見えます。 近くに文学碑があります。このような石碑を見ると嬉しくなります。 文学碑といえば、太鼓橋の左には万葉歌碑がたっています。住吉らしく船の形をしているのが面白く、味があります。 住吉詣はいつの頃からかは知りませんが、かなり昔に遡ることでしょう。 これは、「住よしの 松のみどりに 千代かけてむすぶゑにしの おもひみやしろ」の一句。 要港であった住吉津の近くであることから、航海の神・港の神として祀られた神社とのことで、海上の安全を祈って奉納された大きな絵馬が目を引きます。 他にも多くの見事な絵馬が奉納されています。絵馬に描かれた絵を見るのも楽しみです。 これには「限りある命ゆえ 命の限り踊り 人生を最高の芸術品に かっぽれ家元…」とあります。 鳥居を出て一度振り返り、またいつか来たいと思います。 帰りは、歩いて5分とかからない南海鉄道の住吉大社駅で電車に乗ることにします。 大阪には、「七福神巡り」ならぬ「なにわ七幸めぐり」というのがあるのを知ります。住吉大社の他は2社ほどお参りをしたことがありますが、いつか全部巡ってみたいものです。 |
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『夏祭』の初演は延享2(1745)年7月の大坂・竹本座。すぐに歌舞伎化され、早くも翌月に京都・万太夫で初演されました。 国立劇場では歌舞伎鑑賞教室や勉強会で何度か取り上げられましたが、本公演では平成12(2000)年4月、3幕5場の通し狂言として上演されました。 歌舞伎座では昭和55(1980)年9月にも上演されましたが、ぼくが忘れられないのは昭和59(1984)年6月、17代目中村勘三郎がお辰と義平次を演じた舞台です。このときの団七は8代目松本幸四郎、お梶は坂東玉三郎、三婦は市村羽左衛門でした。年輪を重ねた役者たちの芳醇な香りを感じました。 平成15(2003)年6月には、5回目の「コクーン歌舞伎」として、東京渋谷のシアターコクーンの舞台にかかりました。「いかに大胆に歌舞伎の約束を破って順応させるかがコクーン歌舞伎の見どころ」(児玉竜一)で、それができるのは18代目中村勘三郎をおいて他にいませんでした。『演劇界』(8月号、90頁)が記録しています。 シアターコクーン公演ちらし ※ 河竹黙阿弥作『野晒悟助』の初演は元治2(1865)年市村座。 初めて観たのは昭和53(1978)年、まだ新しくなる前の新橋演舞場で、尾上菊五郎劇団花形公演と銘打った舞台で、40歳の若さで逝った尾上辰之助の主演でした。 この時南無右門を演じた先代の河原崎権十郎が「野晒悟助の思い出」と題した一文を『演劇界』(10月号)に寄せていますが、名脇役の貴重な記録です。 平成5(1993)年12月、10(2008)年5月には尾上菊五郎が演じていますが、花の役者にしか務まらない役で、はまり役の一つと言えます。いずれ菊之助も演じることでしょう。楽しみに待ちたいと思います。 『野晒悟助』住吉社頭の場(『歌舞伎定式舞台集』157頁より) |
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なお『夏祭浪花鑑』の「住吉鳥居前」の後には、高津宮(こうづぐう)の祭礼の宵宮という設定の「三婦内」の場が続きます。続けて「高津宮」をご覧ください。 |
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(2018(平成30)年7月1日) | |