歌舞伎の舞台名所を歩く

  南部坂
『元禄忠臣蔵』「南部坂雪の別れ」


 (1)

真山青果作『元禄忠臣蔵』に「南部坂雪の別れ」の一篇があります。

四場から成りますが、「一、師走の十三日」で大石内蔵助は泉岳寺に参詣を済ませ、「二、煤はき唄」で瑶泉院を訪ねます。

時は元禄15年12月13日の昼下がり。
場所は「赤坂今井なる三次浅野家の中屋敷。その奥御殿」

ト書きには、こうあります。

  赤坂今井台(後世は氷川台という)には、今もなお南部坂、難歩坂など書きわけて二つの『なんぶ坂』があるが、内蔵助奥方阿久里子(あぐりこ)の生家たる浅野土佐守の中屋敷は、今の小学校脇の南部坂の方にあって、屋敷地の大部分はいまの氷川神社の境内となっている。
 
用人や腰元たちと挨拶をかわした後が、「三、瑶泉院さま」。

瑶泉院は「おお稀(めず)らしや、内蔵助……。(イソイソと仏間を出て来り、席につき)それにては遠い。近う」と、突然の訪問を喜びます。

内蔵助は本心を明かさず、暇乞いする前に一つお願いをします。
 
内蔵助 あ、御前さま、内蔵助折り入って……お願いがござります。

瑶泉院 願いとは……?

内蔵助 故殿御生前より念護仏(ねんごぶつ)とあそばしたる御尊像が、御当家御持仏(ごじぶつ)に伝えらるるとうけたまわりました。今生のお分れ、いや……今日のお暇乞いに、御霊牌の前に御焼香をお許し下さるよう……。

瑶泉院 折角ながら、その儀はなりませぬ。(屹ッとしていう)

内蔵助 ええ――。

瑶泉院 わらわが中途にて遮るのではない。殿さまにもさだめて、そなたの回向を……お悦びなさるまいと思うのじゃ。

 瑶泉院、静かに仏間の方へ去る。大石平伏して見送る。
 遠く土圭(とけい)の音。


と言うのでした。

致し方なく内蔵助は、瑶泉院が歌道に関心を寄せていることに事寄せて、東下りの折りに詠んだという旅日記を渡してお暇します。


そして最後の場、

四、雪の南部坂

 浅野土佐守中屋敷、門外。南部坂のほとり。

門を出ると、羽倉斎宮(はぐらいつき)に出会います。「国学古典は天下無双の学者」「歌道においても古今の名人」と内蔵助が思っている斎宮は吉良屋敷の絵図面を届けるなどして、仇討の首尾を待ちかねていたのですが、いまだにその気配もない内蔵助を「腰抜け侍」とざんざんに罵倒して去ります。

幕切れです。

瑶泉院は内蔵助を呼び止めます。
 
瑶泉院 (窓内より)内蔵助。

内蔵助 (初めて気が付き、びっくりして蹲(うずくま)り)おお、これは午前さま—。

瑶泉院 東下りの旅日記、ひと足ずつに心を固め、道中苦慮の有様は、歌々のうちにもよくあらわれ……、思わず涙にくれました。さきほどは、女ごころの浅はかから、そぞるの怨み言を述べまして、面目のう思いまする。

内蔵助 勿体ない、何を仰っしゃる。先月末には五十五の人数(にんず)が、一人ぬけ二人おち……、今は四十幾人おなりましたが、残るはみな鉄石の者どもはかり……たとえ仕損じましても、その場に死にかねぬ者どもにござります。

瑶泉院 冷光院殿さまはお仕合せなる方……、一旦の短慮に家を失いながら、そなたのような家来を持ったは、恵まぬものに恵まるるという、古歌のこころも身に染みまする。

内蔵助 はは。ただ恐れ入り奉りまする。

 寺坂吉右衛門、提燈をもち、足早やに駆け来る。

寺坂 御家老様、お迎い。(とひざまずく)

内蔵助 吉右衛門か。

寺坂 (瑶泉院の方に敬礼して)御免。(大石の傍(そば)によりて何やら囁(ささや)く)

内蔵助 何、それでは大高源吾の働きにて、確かに十四日の夜は在宿するとな。

寺坂 は。

内蔵助 うむ、前原伊助の探索せるも同様なり。十四日は殿の御命日じゃ。(悦び勇み、瑶泉院の方に向い)明十四日は殿の御命日、暁天までには必ず吉左右(きっそう)、いや、これにてお暇申しまする。

瑶泉院 内蔵助、さらば。

内蔵助 ははッ!

 瑶泉院、名残り惜しそうに見送る。
 雪はげしく降る。


 (真山青果『元禄忠臣蔵』「南部坂雪の別れ」 下(岩波文庫, 1982) 58-59, 66-68頁)


(2)

「浅野土佐守中屋敷」跡のある赤坂・氷川神社と南部坂に行ってみます。

◆浅野土佐守邸跡




東京メトロ千代田線「赤坂」駅で下車、転坂を横に見て、緩やかな氷川坂を上ります。港区にはたくさんの坂があり、色々な由来が書かれていて、読むのが楽しいです。

 

駅から10分ほどで氷川神社の入口に着きます。





参道を進むと、



右に縁起が良い名の神社があります。









お参りを済ませて、石段を上ります。



左手は広い境内です。




 包丁塚





●氷川神社社殿














◆浅野土佐守屋邸跡

本殿を背にすると、左向こうに鳥居が見え、右手が浅野土佐守屋邸跡です。














 右に説明板、手前に点在するのは屋敷の土台でしょうか…




鳥居を出て左の通りを行くと、先ほどの氷川坂です。




◆南部坂



氷川坂を通り過ぎ、2分ほどで右にいく通りがあり、すぐ下りの坂が見えます。ここが南部坂です!









 上り口のところ建つ石碑


ちなみに港区にはもう一つ「南部坂」があります。東京メトロ日比谷線「広尾」駅の近く有栖川記念公園入口の右を上る坂で、そこには、忠臣蔵の南部坂は赤坂の南部坂です、と書かれています。
  
   
(3)

『南部坂雪の別れ』は昭和16(1941)年12月号と翌1月号の『キング』誌に発表されました。


昭和62(1987)年4月、歌舞伎座で『元禄忠臣蔵』の6作が上演され、「南部坂雪の別れ」の配役は大石内蔵助=中村吉右衛門、瑶泉院=6代目中村歌右衛門でした。


 公演チラシ

この芝居について真山青果は、

  附記。この篇、河竹黙阿弥翁(おう)の原作に倣うて世間伝説を尊重してつくる。随って登場人物の姓名などは、河竹繁俊氏の快諾を得て、故翁の原作に従うもの多し。 (『元禄忠臣蔵』(下)68頁)

と書いていますが、「河竹黙阿弥翁の原作」とは『四十七刻忠箭計』(しじゅうしちこく ちゅうやどけい)「南部坂雪の別れ」を指すものと思われます。

この芝居は昭和47(1972)年、国立劇場で初演され、平成4(1992)年12月に再演されましたが、再演時は歌舞伎座と同じく後室葉泉院を6代目中村歌右衛門、大星由良之助を中村吉右衛門が演じました。


 平成4(1992)年公演チラシ



お読みいただきありがとうございました。

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(2018(平成30)年12月14日)
 
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