歌舞伎の舞台名所を歩く

 練塀町
 『河内山と直侍』
 
 
 (1)
 
河竹黙阿弥の名作『天衣紛上野初花』(くもにまごううえののはつはな)、通称『河内山と直侍』の「松江邸玄関の場」です。

河内山宗俊が、上野寛永寺のお使い僧北谷道海と偽って松江邸を訪れ、上州屋の娘波路を取り戻しただけでなく、「山吹色のお茶」を所望し、まんまと小判をせしめて帰ろうとします。しかし重役の北村大膳に呼び止められ、正体を見抜かれてしまいます。宗俊、少しも騒がず、胸のすくような啖呵をきります。
エゝ、仰々しい、静かにしろ。
悪に強きは善にもと、世のたとえにも言う通り、親の嘆きが不憫さに、娘の命を助けるため、腹に工(たく)みの魂胆を、練塀小路に隠れなき、お数寄屋坊主の宗俊が、頭の丸いを幸いに、衣でしがを忍ヶ岡、神の御末の一品(いっぽん)親王、宮の使いと偽って、神風よりか御威光の、風を吹かして大胆にも、出雲守の上屋敷へ仕掛けた仕事の曰窓(いわくまど)、家中一統白壁と、思いの外に帰りがけ、邪魔なところへ北村大膳、腐り薬を付けたら知らず、抜きさしならぬ高頬の黒子(ほくろ)、星をさされて見出されちゃァ、そっちで帰れといおうとも、こっちはこのまま帰らねえ、この玄関の表向き、おれにかたりの名をつけて、若年寄へ差し出すか、ただしはかたりを押し隠し、お使え僧で無難に帰すか、二つに一つの返事を聞かにゃァ、ただこのままには帰られねえ。
(古井戸秀夫・今岡謙太郎編著『歌舞伎オン・ステージ 11 天衣紛上野初花』(白水社、1997年)191頁)

このシリーズには脚注がついています。意味はよくわからなくとも、七五調のセリフには酔わされますが、分かった方がいいに決まっていますので、脚注は有難いです。そのまま写します。
練塀小路 魂胆を「練る」と住居の練塀小路とかける。
しが」は欠点、きずのこと。それを隠す意味の「忍ぶ」と寛永寺のあった上野台地の「忍が岡」とをかける。
神の御末の一品親王 寛永寺の門主が天皇の皇子であったところからの台詞。
曰窓 武家屋敷の道路に面した壁に作られた窓で、横木が入り「曰」の字に似ているところからこの名前がある。「いわく」とかけた台詞。
白壁 「知らない」とかけた台詞だが、前の「曰窓」との縁語になる。
北村 「来た」と北村をかけた。現行では「とんだところへ北村大善」として知られる。
腐り薬 黒字や入れ墨などを消す薬。硝酸銀などの劇薬が用いられる。現行では「くされ薬」と発音される。『黙阿弥全集』本文でも「腐れ薬」とする。
星をさされて 図星をさされて。
若年寄 幕府で老中に次ぐ役職。主に旗本、御家人といった幕府直属の侍を監督した。老中と同じく数名の月番制で、譜代大名の中小禄の中から選ばれた。

この芝居の序幕は「湯島天神境内の場」で、武士たちと暗闇の丑松たちが喧嘩になるところを丸く収めた河内山宗俊は感謝されます。ここにも練塀小路が出てきます。
神 主 これはこれは、練塀小路の旦那のお陰で、すんでのことに大喧嘩になろうとしたも無難に済み、
伍 助 お社はじめお山中が、大仕合せを致しました。

河内山が練塀小路に住んでいたことは、よく知られていたのでしょう。
 
(2)

その練塀小路、今は「練塀町」として町名が残っています。



由緒ある古い町名がどんどん消えた中、「練塀町」の名が今もあるのは嬉しいことです。最寄り駅のJR(または地下鉄日比谷線)の「秋葉原」で下車します。

ヨドバシカメラの前の通りを御徒町の方に向かって、交差点を横切ると左手に何か見えます。
ちょっとしゃれた千代田区町名由来板です。
説明には河内山のこともちゃんと書かれています。
 
河内山は実在の人物をモデルにしたとは知りませんでした。 

『日本架空伝承人名事典』(平凡社、1986年)によれば、河内山宗春の生年は不明、文政6(1823)年に没し、実生活については、「幕府奥坊主頭の家に生まれ、水戸家でゆすりを働き捕られて獄死した」と簡単に記述されています。なお宗春の名前は、実録本では宗心、歌舞伎では宗俊とのこと。
 
案内板には昔と今の地図も載っていて、「現在地」と書かれた上の狭い通りが「下谷練塀小路」で、近くには大名屋敷も見えます。 



昔一度ここに来たときは、狭い通りで電柱に「練塀町」の表示があったように記憶していますが、今は再開発されて通りはかなり広くなり、通りの両側には大きなビルが建ち並んでいます。電柱はなく、辺りの様子は一変しました。反対側に渡ります。
ずっと歩いていくと、「神田練塀町」のバス停があり、この先がすぐ十字路で、練塀町はここまでです。  
   
ちなみに練塀はこの通りにも近くにも残っていませんが、芝公園から赤羽橋に向かう途中、妙定院というお寺で見たことがあります。塀の向こうには東京タワーが見えます。 



待乳山聖天(「浅草、1月7日の大根まつりでも有名)でも見たのを思い出して、見るとありましたが、こちらは「築地(ついじ)塀」となっています。どうみても同じに見えますが、違うのでしょうか。或いは単に別称なのでしょうか。



       (3)
 
初演は別の外題でしたが、決定版となった『天衣紛上野初花』としての初演は明治14(1881)年3月、東京・新富座で、9代目市川團十郎(河内山宗俊)・5代目尾上菊五郎(片岡直次郎)・初代市川左団次(金子市之丞)、いわゆる「團菊左」が顔を揃え、大評判になったとのことです。
 
今も人気作で、河内山の件、直侍の件(『雪夕暮入谷畦道(ゆきのゆうべいりやのあぜみち)』)、ともにたびたび舞台にかかりますが、国立劇場では昭和43(1968)年10月に、明治百年記念芸術祭主催公演、5幕11場の通し狂言として上演され、河内山は8代目松本幸四郎が演じました。

この公演のポスターです。
 
(『歌舞伎ポスター集-国立劇場開場25周年記念-』(日本芸術文化振興会, 1991年刊)より)  
 
昭和52(1977)年 12月にも上演されましたが、この時の河内山は17代目中村勘三郎で、その後は12代目市川團十郎・当代の中村吉右衛門の舞台も忘れがたいです。 

吉右衛門の当たり役の一つで、平成30(2018)年9月にも歌舞伎座で演じました。




(左)歌舞伎座 看板  (右)歌舞伎座 鳥居派の絵看板 (共に部分)


ちなみに最初に引用した河内山の名調子は、初代中村吉右衛門・11代目市川團十郎の音声が残されていて、CDで聞くことができるのはとても有難く、時々二人の名調子を聴いて楽しんでいます。    



お読みいただきありがとうございました。 

  『雪夕暮入谷畦道』についてはこちらをご覧ください。

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( 2018(平成30)年4月20日) 
 
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