歌舞伎の舞台名所を歩く

  大石神社
 (京都市山科区)


山科に、『仮名手本忠臣蔵』の九段目「山科閑居の場」になった閑居跡を訪ねた時のことです。

京都市営地下鉄東西線の「椥辻(なぎつじ)」駅で下車し、新十条通りを西に真っすぐ行くと、大石神社のバス停が目に入ります。この神社のことは知りませんでしたので、思いがけない発見に嬉しくなります。





通りを左に入ってすこし行くと、鳥居があります。



周辺にある社寺がわかります。



大石神社は昭和10年の創建、大高源吾などの義士伝で名高い奈良丸節の吉田奈良丸が中心となって全国の崇拝者・義士ファンに呼びかけて浄財を募って建てられたそうです。


参道を進み、左に入ります。



鳥居の前で一礼してくぐり、



本殿で手を合わせ願い事をします。



柱の左右にこのような文字が書かれているのは見た記憶はありません。



絵馬は2種類、どちらも勿論大石内蔵助。



鳥居をくぐってすぐ左に、本殿に向かっている大石内蔵助の像があります。「大石願掛けの像」とあり、その前には願い事が書かれた札(何というのでしょうか)。このようなものも珍しいものに違いありません。





(ちなみに、この右手に義人社があります)

   

向こうの建物は、



忠臣蔵の宝物殿で、入ってみます(入場無料で、出入りは自由)。義士像をはじめ、浮世絵、映画の資料、歌舞伎の舞台写真等々が展示されていて、楽しく見て回ります。





最後に、大石内蔵助(万治2(1659) - 元禄16(1703))についての一文を引用します。

  『忠臣蔵』がかつては「芝居の独参湯(どくじんとう)」とよばれて起死回生の妙薬にたとえられ、今日もなお映画やテレビ映画の娯楽作品としてもてはやされる大衆的人気の源泉に、主人公の備えている人間的魅力があるのは疑いない。

しかし、日本人が思い抱いている『忠臣蔵』の主人公のイメージは、史実に知られる大石良雄その人よりも、むしろ近世の演劇(歌舞伎、人形浄瑠璃)や話芸(講談など)、絵画(浮世絵、絵本の類)などの幾度となく繰り返し演じられ、出版されてきたなかで、民衆知によって育て上げられてきた大星由良助(おおぼしゆらのすけ・由良之助とも表記)像によるところが大きい。史実の大石良雄風貌や性格について、詳しいことはわかっていない。わずかに書き残された信頼できそうな資料によれば、彼は小柄で、声が低く、物静かな男だったらしい。それは、われわれが思い描いている彼のイメージとの間に大きな隔たりをかんじさせるものである。
           
                       (中略)

われわれの由良助像はけっして剛毅木納、無骨一辺倒の地方藩の家老というイメージではない。彼には、紫の粋な着物を着て、祇園一力茶屋で遊興にふけるといった、やわらかではなやかな一面もある。史実の大石良雄が祇園に遊んだのは事実らしいが、そのようすを視覚化して印象を強調したのは芸能の力であり、そこに人間としての大きさやふくらみを加えたのは間違いない。講談、映画、テレビドラマ、小説などで、名を大石良雄として創作しているものも、実はそのイメージを虚構部分の多い大星由良助像に負うているのを見逃すことはできない。

(『日本架空伝承人名事典』(平凡社, 1986)100-101頁より抜粋) 



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(2018(平成30)年7月13日)
 
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