歌舞伎の舞台名所を歩く

  泉岳寺
『元禄忠臣蔵』


 (1)

真山青果作『元禄忠臣蔵』に「泉岳寺」の一篇があります。場の指定です。

芝高輪万松山(まんしょうざん)泉岳寺の境内。その中門うち、参道。

泉岳寺は曹洞宗江戸三箇寺(かじ)の一員だが、三代将軍家光の頃、その命によりて赤穂浅野家の香花院(こうげいん)となり、同家累代の兆域(ちょういき)がその境内にある。

時は元禄十五年十二月十五日、辰の上刻(じょうこく)ごろ、今の午前九時ごろにあたる。

 
 (真山青果『元禄忠臣蔵』下(岩波文庫, 1982)129頁)

赤穂浪士の中の一人、岡島八十右衛門が門にて、

岡島 (火事頭巾をとりて面体をあらわにしながら)われわれは播州赤穂浅野の浪人、昨夜本所無縁寺なる吉良上野介殿屋敷に推参いたしてめでたく本望を遂げ、ただ今故主さまの御墓前に参詣いたす者でござる。この旨、典座寮(てんぞりょう)の御坊まで届け出でまする。(同上、133頁)

と口上を述べます(「無縁寺」は回向院のこと)。すると、住職が登場し、

酬山  (思わず声あげて)やれ大石どの、内蔵助さま。
内蔵助 おお、これは御方丈さま―― (微笑、立ち止まる)
酬山  (感きわまって声出でず)見事に、見事――御本懐を遂げられましたそうな……。
内蔵助 我らの力ではござりませぬ。天の祐(たすけ)でござります。
酬山  冷光院殿さまにも、いかばかりか御満足のことと……。(落涙)さ、まず、御霊前に――。(同上、137-138頁).

内蔵助たちは本堂に礼拝し、静かに内匠頭の墓地に向かいます。

そして幕切れ、公儀より大目付仙石伯耆守の使いがやってきます。
 
  石川 その方ども昨夜、本所吉良屋敷に推参いたし、狼藉に及びましたる段、不届至極には思し召せど、しかしまた、公儀を恐れて菩提寺泉岳寺に引蕾(ひきつぼ)み、頭だちたる者を以て、大目付仙石どのお屋敷へ自訴(じそ)いたせる段は、その致し方残ることなく、お上においても殊の外神妙(しんびょう)に思し召さるる。
市野 よって、それぞれの御処分ある前、大目付お役屋敷において、一同の者に一応訊問あそばさるることとなった。駕籠乗物の用意も致してある。我らと同道して一同の者、罷り出でまするように。
内蔵助 (進み出て)これは、近頃以てお手厚御沙汰。浪人者の我ら一同、ただ有難う御礼申し上げまする。さらば御案内に従って、まかり参ずるでござりましょう。

 内蔵助、うやうやしく頭を下げる。一同もまた平伏する。
                                          ――(幕)―― 

 (同上、214-15頁)

 
(2) 

泉岳寺について、『江戸名所図会』はこう記しています。
 
  当寺は浅野家の香花院にして、その家累代の兆域あり。また浅野内匠頭長矩及び義士四十七人の石塔あり。方丈より南の丘の半腹にあり。傍らに当寺住僧建つる所の石碑あり、その旨趣を注す。二月・三月の四日、及び正月・七月の十六日等には、英名を追慕して、こゝに集う人少なからず。又当寺に義士等の遺物(ゆうもつ)を収蔵する事多し。

元禄十四年三月十四日、浅野内匠頭長矩、吉良上野介義央を刃傷に及ぶにより、長矩に死を給ふ。後その家の長臣大石蔵之助良雄、本国播州赤穂に在りて、君の讐(あた)にはともに天を戴くべからずといふの義により、血盟を以って同志の者をかたらひ、終に元禄十五年十二月十四日、讐家に至り、義士四十七人、義央の所在を捜して、その首級を得、当寺に至って、主君の墓前に祭るの後、誅を待って、翌十六年二月四日自殺せし事は、諸書に詳なるを以ってこれを省く。

マップを見てみます。




都営地下鉄「泉岳寺」駅下車します。出口を出て、右の緩やかな坂を上って2分ほどで着きます。










山門の手前には境内の案内図と大石内蔵助の像があります。















中に入ります。







本山が二つとは初めてですが、その一つが永平寺なのにもちょっと驚きます。







本堂で手を合わせて境内を回てみます。

◆赤穂義士所縁の木・石・石碑など












 

 

 








◆墓所









 


























 浅野内匠頭のお墓


 大石内蔵助のお墓






 大石主税のお墓









手を合わせて、戻ります。







右手には赤穂義士記念館、階段のところに中村勘九郎の名が見えます。後の18代目中村勘三郎でしょうか。






入る時には気づかなかったですが、山門の松が「万松山」の名に相応しく何とも見事です。






(3)

「泉岳寺」の初演は昭和16(1941)年同年11月、東京劇場で、2代目市川猿之助(後の初代猿翁)が主演しました。


昭和45(1970)年12月、国立劇場で『元禄忠臣蔵』が通しで初演された時、「万松山泉岳寺境内」の場として上演され、大石内蔵助は8代目松本幸四郎(のちに初代松本白鸚)でした。

そして国立劇場開場40周年記念の年に当たる平成18(2006)年12月の再演時に内蔵助を演じたのは、8代目の長男9代目松本幸四郎(現2代目松本白鸚)。

ただしどちらも原作通りのまるまるの上演ではなく、ハイライトの一幕でした。


ほとんど舞台にかかりませんが、読んでも心をうつ一幕ではあります。


   
お読みいただきありがとうございました。

 「忠臣蔵を歩く」もどうぞご覧ください。
  ちなみに、北海道砂川市に「北泉岳寺」があり、この地でも義士祭が開催されています。

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(2018(平成30)年12月14日)
 
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