歌舞伎の舞台名所を歩く

  千住大橋
『将軍江戸を去る』


 (1)

真山青果作『将軍江戸を去る』についてのエッセイです。

…慶喜公が宋臣言行録(青果はこう指定している)を読んでいると、一陣の風が短檠(タンケイ)の灯を消す。障子の向うで火影が動き、近侍が点灯に来ようとする時、ほととぎすが鳴いてわたる、という導入部が好きだ。

「しばし、このままにして置け」と言って、将軍は目を閉じ、鳥の声をじっと聴く。開幕後数分の、この場景を、ぼくはこよなく愛している。

慶喜公については、高浜虚子に『十五代将軍』という、すぐれた短編があるが、そこの描かれていいるのは老後の姿で「江戸を去る」慶応四年は、三十一歳の壮年であった。若々しい将軍を、三十五歳の吉右衛門が好演していた。

泣くのは、次の千住大橋の場面である。前場の翌日、四月十一日の早暁、徒歩で、慶喜公が七八人の近侍を伴い、これから水戸に行くために、江戸のさいはてともいうべき、この橋まで来る。

闇にうずくまって、将軍を待っていた旗本らしき武士、どこからともなく集まった町人が、「お名ごり惜しうござります」「お別れ申しあげます」と口々にいいながら、すすり泣く。

ぼくはここで、まず泣いてしまうのである。セリフに苦心しているわけでも、何でもない。ただ江戸を去る将軍に対して、愛惜する人々の真実に、涙するのだ。青果の天才的な場面設定といえよう。

橋を渡ろうとする直前、将軍がいう。「天正十八年八月朔日、徳川家康江戸城に入り、慶応四年四月十一日、徳川慶喜江戸の地を去る (略) 江戸の地よ、江戸の人、さらば」

ようやく明るくなった江戸の町々を見まわし、人々に目礼を返しながら、黒木綿の羽織、小倉の袴を着けた将軍が、橋に足をかけ、そのうしろ姿を、降りて来た幕が蔽う。見るたびにぼくは声をあげて泣きたくなるのである。

この場でも、俗に血を吐くという、ほととぎすが、舞台効果になっている。
 (戸板康二『見た芝居 読んだ本』(文春文庫, 1988)56-57頁)

   
(2)

千住大橋へは東京メトロ日比谷線「南千住」駅で降りて、15分ほどかかったでしょうか、歩いて行きます(一番近い駅は京成電鉄本線「千住大橋」駅)。








橋を渡って、北岸・北千住の方へ行きます。芭蕉の「奥の細道 矢立初めの地」とあります。




ちなみに、南千住の素盞雄神社(すさのおじんじゃ)に、芭蕉の姿と、『奥の細道』の矢立初めとなった有名な一節が刻まれた石碑が建っています(こちらをご覧ください)。


またこの辺りは、北斎が「富嶽三十六景」の中で描いた場所との案内板があります。





   
 
(3)

『将軍江戸を去る』は『江戸城総攻』の第三部として書かれ、初演は昭和9(1934)年、東京劇場。

昭和48(1973)年11月、国立劇場で『江戸城総攻』(えどじょうそうぜめ)が通しで上演 (第61回歌舞伎公演)され、中村吉右衛門が慶喜公を演じました。

平成22(2010)年10月には同じ吉右衛門で、『将軍江戸を去る』が単独で再演されました(第269回歌舞伎公演)。

歌舞伎座や演舞場の舞台にもたびたびかかっていますが、慶喜は12代目市川團十郎、7代目市川染五郎(現・10代目松本幸四郎)も演じています。

   
お読みいただきありがとうございました。

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(2017年1月17日撮影)
 
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