歌舞伎の舞台名所を歩く

  新富座跡


 (1)

まず「新富座」を事典で引いてみます。

東京にあった劇場。明治5(1872)年に、猿若町にあった守田座が京橋区新富町6-9に移転、明治8年に新富座と改称した。

明治9年に類焼、翌年仮小屋で開場、明治11年6月本建築がなり、この時外国公使、大臣など朝野の名士を招待し、役者は燕尾服、座方関係者はフロックコートで挨拶し話題になった。

以後、新富町時代を築き明治前期の日本を代表する劇場となって、文明開化の社交場ともなった。(以下略)

(『歌舞伎事典』 平凡社, 1990)

この劇場について、劇作家の岡本綺堂がこんなことを書いています。

  新富座新築の開場式に在京の各外国人を招待したので、その時同じく招待をうけた英国公使館の外国人らが主唱者となって、外国人から何か新富座へ贈り物をするということになった。わたしの父は英国公使館に勤めていて、かつは団十郎ともかねて識っている関係から、一応それを新富座に交渉すると、座主の守田は非常によろこんで、記念のためにどうか引幕を頂戴することは出来まいかといった。

そこでいよいよその引幕-私はその下絵も実物も見たが、それは紫の絹地のまん中に松竹梅の円を繍って、そのなかに新富座の定紋のかたばみを色糸で繍い出したものであった-を贈ることになて、翌年の三月興行から新富座の舞台にかけられた。
  (中略) 

  新富座の三月興行は二月二十八日からいよいよ開場して、例の引幕が舞台に懸けられることになった。これは後で聞いたことであるが、その引幕の費用全部を外国人側から支出したのではなく、外国人からは幾らかの金をまとめて寄贈し、それを土台に守田がまた幾らかの足し前をして、予定以上の立派なものを作りあげたのであって、彼としては多少の自腹を切っても、外国人から引幕を贈られたという一種の誇りを覚えれば、それで満足していたらしい。
 (岡本綺堂 『明治劇談 ランプの下にて』(岩波文庫, 1993)20-24頁)
 
文中の「守田」という人物については、
 
  門付きの羽識をきた立派な男が車夫に何か大きな風呂敷包みを持たせて来て、わたしたちのうちで年嵩(としかさ)の児にむかって、「この辺に岡本さんという家はありませんか。」と訊いたので、わたしは竹馬に乗ったままで自ら進んで出て、「あたしの家はあそこです。」と指して教えると、そのひとはにっこり笑って、「ああ、そうでございますか。ありがとうございます。」と丁寧に会釈して行った。

しかしその人はわたしの家の裏口の方からはいりそうに見えたので、わたしは竹馬を早めて追って行って、「あっちが門です。」と再び教えると、その人は、「はあ、左様でございますか。」と更に丁寧に会釈して行き過ぎたが、やはり裏口の木戸からはいって行った。ひどく丁寧な、おとなしやかな人だと、わたしは子供心にも思ったが、あとで聞くと、それが守田勘弥という人であった。

守田は今度の引幕の件について、わたしの父のところへ挨拶を述べに来たのであった。(中略)その時に守田が土産に持って来たのは西洋菓子の大きい折で、風月堂で買ってきたのであった。明治12年頃に西洋菓子などを持ちあるいているのは、よほど文明開化の人間、今日のいわゆるハイカラとかモダーンとか言うたぐいであったろうと思われる。父も「守田は変わった男だ」と言っていた。(同上、21-24頁)

『ランプの下にて』の「新富座見物」の章は、当時の劇場をとりまく様子がわかる大変興味深い内容ですので、かいつまんで引用します。

  新富座見物のことはわたしもたしかに記憶している。その日は三月の九日で、時間まではさすがにおぼえていないが、何でも朝飯を食ってしまうと、早々に着物に着換えさせられたのを思うと、恐らく午前八時頃から繰り出したのではあるまいか。

元園町から人力車にゆられてゆく途中はかなり寒かったが、車の走るにしたがって、往来の景色が走馬灯のようにだんだん変わってゆくのを、その頃の子供たちはめずらしがって喜んだものであった。

それと同時に、その時代の人力車なるものは今日の自動車ぐらいに危険視されて、毎日のように人力車に衝突したり轢かれたりする人間があった。

ゆき着いた芝居茶屋は菊岡という家で、わたしはここで袴を脱がされた。父は最初から袴を履いていなかった。

茶屋の若い者に案内された場所は、西の桟敷(さじき)であることを後に知った。

幕間に、わたしは父に連れられて劇場の外へ出た。

小屋の表には座主や俳優へ寄贈の幟(のぼり)が沢山立てられて、築地の川風に吹かれている。座の両側にも芝居茶屋が軒をならべて、築地橋から座の前を通りぬけた四つ角まで殆どみな芝居茶屋であった。その花暖簾(のれん)や軒提灯の華やかな光景はもう見られない。

その当時は劇場内に広い運動場(ば)というものがなかったのと、もう一つには幕間が随分長いのとで、大勢の観客は前にいったような太い鼻緒の福草履を突っかけて、劇場外の往来、即ち今の電車道をぶらぶら散歩していた。

その副草履が芝居の客であるという証拠になるので、若い男や女たちはそれを誇るように、わざと大勢つなかって往来を徘徊(はいかい)しているらしかった。

わたしは茶屋と茶屋との間にある煎餅屋の前を通ると、ちょうど今日の運動場で売っているような辻入りの八橋(やつはし)を籠に入れて、俳優の紋所を柿色や赤や青で染め出した紙につつんで、綺麗そうに沢山ならべてあるのを見つけた。わたしはそれを指して父にねだると、父は紙入れを母にあずけて来たので、懐中には金を持っていなかった。

父はそのわけをわたしに話して、この次の幕間に買ってやると言いながら行き過ぎようとすると、店にいた若いおかみさんがわたちたちを呼びとめて、「お代はあとで宜しゅうございますから、どれでも宜しいのをお持ちください。」と笑いながら言ったので、父も笑いながら引返して、その辻占の籠をわたしに一つ、ほかの者に遣る分を四つ、都合五つを受け取って帰った。

勿論、このおかみさんも如才ないには相違なかったが、顔馴染のないわたしにたいして、無料でそれだけの商売物を愛想よく渡してくれたのは、かの福草履の威徳にほかならない。おかみさんは私たちの草履を信用して、これだけの商いをしたのであった。

わたしはその辻占の籠をさげて、幟の多い春の町をあるいていると、お花見などとは違った一種の浮かれた気分をぼんやりと感じた。(同上、25-31頁)
 

 三谷一馬画「新富座附近の図」(『風俗画報』掲載、岩波文庫 35頁より)

 
またこの本の巻末には「明治演劇年表」がついていて、新富座はたびたび登場します。明治時代にこの劇場が如何に重要な位置を占めていたかがわかります。


平成30(2018)年は明治150年に当たるとのことで、様々な記念展があちこちで開かれていますが、次のような講座も開催される予定でぜひ聞いてみたいと思っています(120名の定員を超えると抽選で、そうなったら当たりますように!)
 

 
ちなみに川口松太郎作『明治一代女』に「新富座茶屋の二階」と「新富座楽屋」の場があります。


 (2)

新富座は中央区新富町にありました。




地下鉄有楽町線「新富町」駅で下車、3番の出口から出ると、築地橋の交差点です。左の通りに入るとすぐに大きめの花壇が目に入ります。「救世軍渡来記念の地」とあり、



左右に次の文字が刻まれています。




この反対側に京橋税務所(2018年には新築工事中)があり、植込みに説明板が見えます。



近づくと、ここが新富座のあった場所とわかります。






辺りを歩いてみます。ここは新富稲荷神社で、



7代目坂東三津五郎が奉納した石の手水舎のようなものがあります。新富座に出演した役者や劇場関係者もお参りをしたことでしょう。



「新富座」と名のつくお酒があるのを知って嬉しくなります。




二階建の木造の家が目に入ります。



舞踊足袋の大野屋の本店です。大野屋と言えば、歌舞伎座の交差点のところにある店を思い出します。



他にも古い趣のある家や、



神社、





初めて見るお地蔵さんもあります。








新富町  明治期に新富座・芝居に関係する人たちや店で賑わった芝居町であった事を感じさせます。昔の面影を残し、風情ある何とも良い町ではありませんか!


新富座こども歌舞伎」もご覧ください。



  
お読みいただきありがとうございました。

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(2018(平成30)年10月15日)
 
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