歌舞伎の舞台名所を歩く

  洲崎神社
『網模様灯籠菊桐』ほか


 (1)

河竹黙阿弥作『網模様灯籠菊桐』(あみもよう とうろのきくきり)、通称「小猿七之助」は、今はふつう「矢矧橋の場」「永代橋の場」に続いて、三幕目「深川洲崎の場」が上演されます。 

夏のある日、七之助は落雷にあって気を失った奥女中の滝川を介抱します。何かお礼をしたいと言う滝川に、七之助は一つ望みがありますと言います。

滝川 して、その望みとは。

七之助 へい、お情にあずかりとうござりまする。

滝川 えゝ――

 トびっくりなす。虫笛誂えの合方になり

七之助 いや、何もびっくりなさることはねえ、命の親の私へのお礼ならば滝川様、どうぞ一ト晩しっぽりとお情かけて下さりませ。

所は名におう永代橋、昼にもまさる月の夜にふッと見たのが縁の端、佃を越して来る風より身にしみじみと惚れぬいて、その時抜いたこの簪、杏葉菊(ぎよようぎく)の文字入りに、滝川という名前が知れ、雲間の月の見え隠れ跡から附けて屋敷を見届け、いくら泣いても喚いても、町を離れた洲崎の土手、昼でもあるか更ける夜に往来稀な雨上り、湿り勝なる汐風に途切れた雲の星明り、微かに聞こえる弁天の茶屋の端唄や中木場の木遣の声を寝耳に聞き、いなごやばったと割床(わりどこ)に、露のなさけの草枕おぬしとしっぽり濡れる気だ、どうでよごれた上からはこゝで器用に抱かれて寝やれ。

 (『名作歌舞伎全集』、第23巻、64頁)


同じく黙阿弥の『八幡祭小望月賑』(はちまんまつり よみやのにぎわい)、通称「縮屋新助」「美代吉殺し」」の三幕目の返しは、「洲崎土手の場」。 

新助は、美代吉にだまされたと思って手にかけます。そこへ現れたのは作助。美代吉の手紙と、証拠の不動尊を見せられた新助は、真実を知ります。

  新助 (思入れあって)神ならぬ身の情なや、現在妹と知らずして、ふっと迷いし我が煩悩寝ても覚めても忘られず、いつぞや船での約束を真実(まこと)と思ってそれからは、附けつ廻しつしたおれが、今となっては面目ない。義理にせまってこのおれにおぬしが肌に触れたなら、この世からなる二人は畜生。これ妹、堪忍してくれ堪忍してくれ、おりゃおぬしの兄じゃぞよ。この兄の身でこのように惨(むご)く殺すも互いの因果、おぬしばかりを殺しはせぬ。

作助 どうした心の狂いやら、多くの人を殺したこなた。

新助 血汐を好むと聞き及ぶ、この村正の祟りなるか。

作助 ただしは、何ぞの約束なるか。

新助 あ、是非もなき世の、

両人 成行じゃなあ。

 (『名作歌舞伎全集』、第11巻、78頁)
 
(この芝居については、「富岡八幡宮」もご覧ください。)


『三世相錦繍文章』(通称「お園六三」)の二幕目は「洲崎道行の場」で、

 春ふけて、江戸の淡路の上総山、洲崎に通う浜千鳥、覚悟も対の晴れ小袖。

 浅黄を落とすと、お園六三、対の衣装、樒(しきみ)を差し、手拭をかむり、糸立に身を包んで立ち身。

 蝶花の、外を吹雪の二人連れ、狂うともなくほらほらと、風に押されて踏みどなき、足弱車ひきなやむ、お園を抱きいたわりて、背(せな)なでさすり、声くもり。


六三 世の成りゆきとは言いながら、長の病気のその上に、苦労のありたけしつくして、情と義理に、身を捨つる。

 不便の者やと抱きしむれば、顔つれづれと打ちまもり。

お園 また勿体ない事いわしゃんす。宝を失い御浪人しな、元はといえば、わたしゆえ。

 今さらいうも愚痴なれど、誓いは二世(にせ)と三世相(さんぜそう)、あけて数えて相性に、金と水とは上もない、よい子儲けていつまでも、仲睦まじゅう栄えると、書いてあるのは真実の、本と思うた甲斐ものう。

お園 あの兄さんの胴慾な。いくせの思いで育てたる、お松も非業に先立ちて、お前になんと言いわけなく。

 口惜しと思う一心に、兄を殺した身の罪科、親子兄弟夫婦まで、一夜のうちに死ぬという、因果がどこにあるものぞと、男の膝にすがりつき、前後正体泣き沈む。

六三 これはしたり、人は最期の一念によって、生を引くというからは、心を清う死ぬものじゃわいのう。あれを見や、このマア土手から袖ケ浦、見晴らす夜半(よわ)の春景色。

お園 月は冴ゆれど晴れ間なく、涙の雨にかきくもり。

六三 袖のしずくにを後の世に、手向けの水と花見月。

 (『名作歌舞伎全集』、第15巻、321-23頁)


ほかにも 『五大力恋緘』(ごだいりき こいのふうじめ)の序幕は「洲崎升屋の場」(『名作歌舞伎全集』第8巻、107頁)と、「洲崎」では男女の様々な模様が描かれます。


 
(2)
 
初日の出を拝む習いは江戸時代にはあり、高輪・芝浦・愛宕山・湯島など見晴らしの良い場所はいくつかありましたが、洲崎の堤上はことのほか素晴らしかったらしく、浮世絵にも好んで描かれています。

   
歌川国芳「東都名所 洲崎初日の出の図」
(『歌川国芳 絵画力』府中市美術館編(講談社, 2017)61頁より)


現在「洲崎」と云えば、やはり洲崎神社でしょうか。




東京メトロ東西線「木場」駅で下車、3分ほどで着きます。



















この一帯はかつて津波の被害にあったことが波除碑からわかります。歌舞伎の舞台となった洲崎の土手はこの辺りだったのでしょうか。






 
   


(3)

『網模様灯籠菊桐』の初演は安政4(1857)年、江戸・市村座。


昭和45(1970)年6月、国立劇場で上演され(第33回歌舞伎公演)、奥女中滝川は7代目尾上梅幸、小猿七之助は14代目守田勘弥が演じました。


 国立劇場公演ポスター
 (『歌舞伎ポスター集-国立劇場開場25周年記念-』(日本芸術文化振興会, 1991年刊)より)


その後も度々舞台にかかっていますが、團十郎の舞台が一番記憶に残ります。

昭和50(1975)年9月、歌舞伎座で10代目市川海老蔵時代に坂東玉三郎と共演し、

昭和57(1982)年8月、浅草公会堂で同じ配役で再演、12代目市川團十郎を襲名後は、

平成6(1994)年5月、歌舞伎座で4代目中村雀右衛門を相手に演じました。  
   


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(2018(平成30)年11月7日)
 
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