歌舞伎の舞台名所を歩く

  鈴ヶ森
『浮世柄比翼稲妻』


 (1)

鶴屋南北作 『浮世柄比翼稲妻』(うきよづか ひよくのいなづま)の二幕目は「鈴ヶ森」の場です。

白井権八は駕籠からおりると、雲助たちは酒手をねだるどころか、「丸に井の字」の紋を見て、お尋ね者の白井権八と知って、褒美の金欲しさに襲いかかります。権八はやむを得ず手にかけてしまいます(この場面、おかしみの立ち廻りで観客を楽しませます)。

それを見ていて呼び止めた男がいました。

長兵衛 お若えの、お待ちなせえやし。

 ト声をかける。権八、びっくりして上手へ行きかけ、思入れあって、

権八 待てとおどどめなされしは、拙者が事でござるかな。

長兵衛 さようさ。鎌倉方のお屋敷へ、多く出入りのわしが商売、それをかこつけ有りようは、遊山半分江の島から片瀬へかけて思わぬ暇取り、どうで泊りは品川と、川端からの帰り駕籠、通りかゝかった鈴ヶ森、お若えお方のお手のうち、あまり見事と感心いたし、思わずみとれておりやした。お気づかいはござりませぬ。まア、お刀をお納めなせえまし。

 ト忍び三重になり、長兵衛、駕籠より出て、提灯を持って権八と入れかわり、権八の刀を提灯にて見る事あって、土手の松へ提灯をかける。

権八 拳(こぶし)も鈍き生兵法、お恥ずかしゅう存じまする。

 ト刀を鞘へ納める。

権八は名を名乗り、尋ねます。
 
  権八 シテ、其許の御家名は。

長兵衛
 問われてなんの何某と、名乗るような町人でもござりませぬ。しかし産まれは東路に、身は住みなれし隅田川、流れ渡りの気散じは、江戸で噂の花川戸、幡隋長兵衛という、イヤモ、けちな野郎でござります。

権八
 スリャ其許が、中国筋まで噂の高い長兵衛殿。

 ト言いかけるを、

長兵衛 イヤ、その中国筋まで噂の高い正真正銘の長兵衛というは、私がためには爺さんにあたる、鼻の高い幡随長兵衛、又その次は目玉の大きいわしが親父、その長兵衛と思いなさると当てが違う。イヤ大違いだ大違いだ。しかし、親の老舗とお得意さまを、後立にした日にゃア、気が強い。弱いやつなら除けて通し、強いやつなら向う面、韋駄天が皮羽織で鬼鹿毛(おにかげ)に乗って来ようとも、びくともするのじゃごぜえやせん。及ばずながら侠客(たてし)のはしくれ、阿波座烏は浪花潟、藪鶯は京育ち、吉原雀を羽交(はげえ)につけ、江戸で男と立てられた、男の中の男一匹。いつでも尋ねてごぜえやせ。陰膳すえて、待っておりやす。

 ト長兵衛おろしく思入れにていう。

 (『名作歌舞伎全集』第15巻、77, 78頁)

※『浮世柄比翼稲妻』は『名作歌舞伎全集』第9巻に載っていますが、この場は含まれていませんので、南北の先行作である初代桜田治助作『幡随院長兵衛精進俎板』(ばんずいんちょうべえ しょうじんまないた)、二幕目「鈴ヶ森の場」から引きました。

 

 絵金「浮世柄比翼稲妻 鈴ヶ森」 須留田神社蔵

  「鶴屋南北と絵金との二つの世界が合体し、相乗して成り立った作品である。南北の脚本は、”ト書き文芸”という分野が存在してもよいとおもわせるほど、情景描写や殺しの演出が詳細に書き込まれている。オブジェ化されたバラバラ死体がころがる風景は、まさに南北的であり、かつ同時に絵金的でもあるだろう。
 (中山幹雄『歌舞伎絵の世界』(東京書籍, 1995)65頁より)


(2)

鈴ヶ森へは京急「大森海岸」駅からが近いのですが、「泪橋」も見たいので「立会川」駅で降ります。



駅のすぐ近くに坂本龍馬像がたっています。





その裏手には神社が見えます。




旧東海道へ出ると、まもなく立会川です。



ここに架かる橋が泪橋で、その由来が書かれています。






進むと、近代的なビルに神社が入っています。






鈴ヶ森に近づきます。



題目供養塔がひときわ目を引きますが、他にもいくつかの碑がたっています。





しながわ百景の一つ、「鈴ヶ森刑場跡と大経寺」とあります。







丸橋忠弥らが処刑された「磔台」(左)、八百屋お七らが処刑された「火炙台」(右)が残ります。



馬頭観音などの碑を一通り見て、




もう一度鬚題目を見ようと戻ると、大経寺のお坊さんが花を供えて、線香をたむけています。



この碑が中央に配される歌舞伎の舞台を思い浮かべます。



歩道橋を上ると、遺跡全体が見えます。



   
 (3)

『浮世柄比翼稲妻』の初演は文政6(1823)年、江戸・市村座。


国立劇場での初演は、昭和53(1978)年3月(第91回歌舞伎公演)。二幕目が「鈴ヶ森の場」で幡随院長兵衛は17代目市村羽左衛門、白井権八は尾上菊五郎が演じました。


「御存鈴ヶ森」の外題で一幕としてしばしば舞台にかかりますが、最近では平成26(2014)年11月、歌舞伎座の吉例顔見世大歌舞伎(夜の部)で、尾上松緑(幡随院長兵衛)と尾上菊之助(白井権八)という若い二人が好演しました。


次は平成30(2018)年11月、「南座発祥四百年 南座新開場記念」と銘うった、松本幸四郎改め二代目松本白鸚、市川染五郎改め十代目松本幸四郎、松本金太郎改め八代目市川染五郎襲名披露興行」のポスターと絵看板です。上方の絵看板についてはよく知りませんが、鳥居派の絵看板とは趣を異にして興味あります。






平成31(2019)年4月、歌舞伎座では菊五郎と吉右衛門の大顔合わせでした。次は鳥居清光描くところの絵看板(2019年4月)と、最近になって地下入口の左の壁にかかるようになった看板です。





最後に、この芝居の幕切れについてです。

  「鈴ヶ森」最後の幕切れ、黒幕を切って落とすところが印象的だが、これも大正までは、背景が海だった。ところが先代彦三郎が菊五郎(ろくだいめ)に、「うしろが海だったら、花道から出てきてはおかしい。川崎の方、西から入ってくるのだから、客席が海でなければいけない」といって、今ではうしろに田圃があって、その向こうに大山が描いてある。私がこのあいだ長兵衛をした時に、それはいけない、と昔に返して海にした。

ところが今の人たちは大正以後の人ばかりだから多数決でまた元の田圃になった。あの「南無阿弥陀仏」の碑、あれが海を向いているのなら、裏向きにならなければいけないとか。
   (中略)

  本来は、芝居の背景は実際の方角にこだわらない方がいい。やっぱり「鈴ヶ森」の幕切れは黒幕をパッと落としたら、海でなければ。

「ここらあたりは、夜が明けると、一面安房上総が一目でございます」とうのは、雲助がうしろを指すのに、今は客席の方を指さす。どっちにしろ、安房上総は、今は見えなくなってしまったから仕方がないが、効果という点では大分ちがう。 

 (坂東三津五郎(8代目)『東海道歌舞伎話』(日本交通公社, 1972)15-17頁)


なお、同じく鈴ヶ森が舞台になる『其小唄夢廓』については、「権八小紫の比翼塚」をご覧ください。



お読みいただきありがとうございました。

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(2018(平成30)年10月13日)
 
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