歌舞伎の舞台名所を歩く |
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『隅田川』 | |
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謡曲『隅田川』から歌舞伎化された『隅田川』、登場人物は京より人買いにさらわれたわが子を探しにきた母親と舟人の二人のみ、簡潔な舞台面、それでいてこれほど人の心を打つ芝居はありません。 |
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実にや人の親の心は闇にあらねども、子をおもう道に迷うとは、 今こそ思いしら雪の、身にふりかゝるうき苦労、たれにかたりてはらすらむ。 狂女 是は北白川に、年月住める女なり。 思わざりきおもい子を。 人商人(あきうど)にさそわれて、、行衛はいずこ逢坂の、関の東の国遠き、吾妻とかやに下りうと、 聞くよりこ心みだれ髪くしけずるrむ青柳の、いとし我子を尋ねわび千里をゆくも親心、くろとはなしに吾妻なる隅田河原のかたほとり渡りに近くつきにけり。 (『歌舞伎名作舞踊』(演劇出版社, 1991)140頁) |
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見ると舟人が舟を出すところ、狂女は乗せてもらいます。見ると向こうの岸辺に人が集まっているので何か聞くと、亡くなった子を供養としているとのこと。 |
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狂女 のうのう、舟人。今の物がたりは、いつの事にて候ぞ。 舟人 去年三月しかも今日が命日にて候。 狂女 シテその稚児の年は。 舟人 拾二、三とか。 狂女 その名は。 舟人 梅若丸。 |
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我が子と知って泣き崩れるのでした。舟人の台詞から梅若の命日は三月十五日と分かります。 |
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語り傳へ謡ひ傳へて梅若忌 虚子 |
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戸板康二著『劇場歳時記』には、 |
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梅若塚は向島の木母寺にあって、歳時記に旧暦三月十五日、大念仏が営まれ、「諸人群参」すると記されている。 (中略) もっとも、ただそれだけではない。三月十五日は、昔から「御事の日」といって、尋常には扱われていなかった。 |
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とあり、毎年4月15日に梅若忌大念仏法要がとり行われています。 |
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「梅若と忍惣太」月岡芳年 (「名作にみる浮世絵師の系譜」展(銀座松屋, 1972)図録より) |
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梅若塚のある木母寺(別名「梅若寺」)は隅田川沿いにあります。天台宗のお寺で山号は梅柳山、 総本山は比叡山延暦寺です。 |
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東武・東京スカイツリー線「鐘ヶ淵」駅で下車します。 隅田川に向かって5分程歩くと、梅若公園があります。その一角に「梅若塚」が建っています。 マンション群の中に入ると「梅若」の名を冠した橋があり、 隅田川の方に木母寺が見えてきます。 境内にはいくつもの石碑がありますが、先ずその中のをいくつかを見てみます。 「天下之糸平」 「浄瑠璃塚」 落語の「三遊塚」 (ちなみに柳派の「昔ばなし 柳塚」が柳島妙見堂にあります) 川柳関係の石碑 ◆梅若塚 最初に木母寺の外から見た石碑と、塀の向こうの御堂「梅若念仏堂」です。 境内に入ると右手に見えます。 この中には木母寺の再興を支援したと云われる9代目市川団十郎の書による「梅若塚」と記された木額もあります。 念仏堂の隣に梅若塚があり、これは貞元元(976)年に梅若丸が亡くなった場所に築かれた塚で、柳の木を植えて供養したと云います。 |
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『隅田川』は2代目市川猿之助によって大正8(1919)年の歌舞伎座で初演されました。「ロシアン・バレエの感覚を採り入れた斬新さが評判」になったと云います。 昭和期には6代目中村歌右衛門が度々演じ、清元の志寿太夫との名コンビによる至芸を堪能する幸せに恵まれました。舟長で忘れられないのは、何といっても17代目中村勘三郎です。 歌右衛門の言葉です。 |
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これは踊りとはいっても劇の要素が強く、踊りはニ、三分で七、八分は芝居と心得なければいけないと思います。 振り、装置、衣装(高根宏浩)など初演から変りませんし、外国でもカットしたことはありません。いまとなっては宗家〔=藤間勘祖(筆者注)〕の大事なおかたみになりました。愛着ひとしおの『隅田川』を、一貫して志寿お師匠さんに語って頂いているのは、本当に幸せです。(同上書、139頁) |
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(2016年11月20日撮影) |
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