歌舞伎の舞台名所を歩く 吉原 |
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『其小唄夢廓』ほか | |
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歌舞伎や落語に出る地名で、「吉原」ほどたくさん出てくる場所はおそらく他にはないでしょう。歌舞伎や落語を観たり聞いたりする人にとって、これほど耳になじみの深い場所もないでしょう。 まず歌舞伎で「吉原」とつく「場」を国立劇場の公演から拾ってみます。 |
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『天衣紛上野初花』(くもにまごううえののはつはな)第二幕第一場「吉原大口楼二階廻し座敷の場」、第二場「吉原大口楼三千歳部屋の場」 『籠釣瓶花街酔醒』(かごつるべさとのえいざめ)序幕「新吉原仲の町の場」『男伊達吉例曾我』(おとこだてきちれいそが)第三幕第一場「江戸吉原仲の町の場」 『黒手組曲輪達引』(くろてぐみくるわのたてひき)二幕目「新吉原仲の町の場」 『浮世柄比翼稲妻』(うきよづかひよくのいなづま)大詰「吉原仲之町の場」 『其小唄夢廓』(そのこうたゆめもよしわら)第二場「新吉原仲の町の場」 『江戸生艶気樺焼』(えどうまれうわきのかばやき)二幕目第一場「吉原浮名屋格子先の場」、第二場「吉原浮名屋座敷の場」、第三場「吉原浮名屋裏手の場」 『碁太平記白石噺』(ごたいへいきしらいしばなし)「新吉原揚屋の場」 |
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などがあり、立花屋・浮名屋など店の名がつく場もあります。 落語にも「廓話」があって、『明烏』『木乃伊取り』『居残り佐平次』『お見立て』『品川心中』などなどの名作を始め数多くありますし、勘当される若旦那の原因は決って吉原です。 歌舞伎や落語とは切っても切り離せない吉原、今も地名が残っているので行ってみることにします。 地下鉄日比谷線「三ノ輪」で下車、明治通りから土手通りに入って10分ほど歩くと、「吉原大門」の交差点に着きます。 左の信号に「吉原大門」、反対側のガソリンスタンドの前に柳が見えます。 これが有名な「見返り柳」です(何代目かになるのでしょうが)。 木の下には、 説明板と、 石碑がたっています。 もう一度上を見ると、スカイツリーが見えるのに気が付きます! 右に曲がって少し行くと、マンションに「吉原交番」があります。ここは以前、花魁ショーで知られた松葉屋があったところとか…。右に「ラーメンランド」の看板が見えますが、「ソープランド」を連想してしまいます。 吉原遊郭は「お歯ぐろ溝(どぶ)」で囲まれていましたが、その石垣が残っているというので、交番で聞くと、若いお巡りさんは親切にも先に行って、ここですと示してくれました。交番の手前を、右に少し行ったところで、一人では見逃して通り過ぎたかも知れません。 ここを過ぎるとすぐに吉原公園の裏手で、 公園を突っ切って正面に行きます。 入口右に「旧町名由来案内」があり、 ここ「旧新吉原江戸町一丁目」の説明が記されています。 |
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最初を写します。 |
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元和3年(1617)府は日本橋葺屋町東側(現日本橋人形町付近)に江戸では唯一の遊郭開設を許可した。遊郭は翌年、営業を開始したが葭の茂るところを埋め立てて造ったことから、はじめのころは「葭原」と呼ばれた。そして寛永3(1626)縁起のいい文字にかえて吉原となった。明暦2年(1656)なると町奉行から、吉原を浅草日本堤へ移転するように命じられ、翌3年に移転した。それから、この付近は浅草新吉原と呼ばれるようになった。 | |
しかし「新吉原」の町名は昭和41(1966)年に消えて、台東区千束となりました。 この前の通りは「江戸町通り」で、当時の名残を留めます。そして現代の遊郭「ソープランド」が軒を連ねます。100軒以上あるとか。吉原の遊女はかなりの数にのぼったとされますが、何とか嬢、今はどのくらいるのでしょうか…。 左に行くとすぐに「角えび」という店の名が目に入ります。 「角海老」と云えば、『人情噺文七元結』(にんじょうばなしぶんしちもっとい)の序幕第二場は「吉原角海老楼の場」で、左官の長兵衛の娘は、親を助けようと、苦海に身を沈めることにして、この店にやってきています。探しにきた長兵衛に、ここのおかみは、なかなかの人物で長兵衛に、 |
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此娘(このこ)が内へ来たのもお前の事を心配しての事、おいおい泣いて口が利けず、段々様子を尋ねると、親の恥を申しましては済みませんが、親父の道楽が止みませず、酒と博奕に内を外、どうしても此の暮が行き立たず、寧(いっ)そ夫婦別れを仕ようか、所帯を此侭(このまま)仕舞おうかというのを傍で聞いて居られず、誠に申し兼ねましたが、私の体を何年でも……その身の代で、借財の形を付け、両親仲良く暮らしますよう、どうぞお願い申しますと、言われた時は、妾(わたし)をはじめ傍に居た新造子供まで泣かないものは無かったよ。 (『国立劇場上演資料集〈434〉近江のお兼・人情噺文七元結』40頁) |
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そして、旦那に内証で25両のお金を貸し与えて、 | |
この娘の孝行にめんじて貸して上げるのだからね……この娘を店にだして若し悪い病でも引き受けると可愛そうだから、妾の手元に置いて、小間使いにしようと思うが、しかし長兵衛さんやっぱり見世へ出たと思って、精出して稼いだ上、一日も早く受け出しに来るとおしよ。(同上、42頁) |
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と言うのでした。 この芝居の原作は三遊亭円朝の「文七元結」で、歌舞伎化されて、初演は明治35(1902)年9月の歌舞伎座。今でもたびたび舞台にかかり、涙と笑いを誘う人気の演目です。 平成19(2007)年10月には新橋演舞場で山田洋次監督の演出(長兵衛は十八世中村勘三郎)で上演されましたが、ふつう演出者はいない歌舞伎で、しかも映画監督が演出するというのは珍しいことでした。この舞台は「シネマ歌舞伎」としてフイルムにおさめられ、映画館で上演されました。 また落語の「木乃伊(みいら)取り」の若旦那が行って帰ってこない「吉原の店」もこの角海老でした。 そんなことを思い出しながら、またこの通りが醸し出す独特の雰囲気を感じながら、「吉原交番前」の交差点を過ぎると、 4・5軒目に三浦屋があります。 今度は助六を思い出します。歌舞伎十八番『助六所縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)』は「三浦屋格子先の場」一幕の芝居ですが、2時間以上かかる大曲です。歌舞伎の典型的な役どころが全て登場しますが、何といっても主人公の花川戸の助六と全盛の花魁三浦屋の揚巻が花です。 そして二人とも、威勢のいい胸のすくような啖呵を切ります。助六は盗人(ぬすっと)だ、と言う鬚の意休に向かって言う、揚巻の有名な台詞です。 |
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今からこの揚巻が悪態の初音。意休さんと助六さんをこう並べて見た所が、こちらは立派な男振り、こちらは意地の悪そうな顔つき。たとえて言おうなら雪と墨、硯の海も鳴戸の海も、海という字に二つはなけれど、深いと浅いは間夫と客、間夫が無ければ女郎はやみ、暗がりで見ても助六さんと意休さんを取りちがえて、マよいものかいなア。 (『名作歌舞伎全集』第18巻、150頁) |
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『助六所縁江戸桜』「三浦屋格子先の場」定式舞台[部分](『歌舞伎定式舞台集』より) ◆関連で「助六の塚」もご覧ください。 三浦屋は他にも、『男伊達吉例曾我』(おとこだてきちれいそが)の第二場「吉原三浦屋店先の場」、『黒手組曲輪達引』(くろてぐみくるわのたてひき)の大詰「三浦屋格子先の場」などに出てきます。そして『助六』の揚巻も、『黒手組の助六』の新造白玉も、『権八』の小紫も三浦屋のお抱えでした。 この店や角海老が、歌舞伎や落語の作者がモデルにした店であるかどうかは分かりませんが、歌舞伎ファンにとって「三浦屋」という名も特別な連想を伴うことに変わりはありません。 写真を撮っている間にシャッターが開き、見ると「角海老」の暖簾がかかっています。右の「入浴料」の下に、営業時間が12:00~24:00とあります。「世の中は暮れて廓は昼になり」という川柳があり、「不夜城」と呼ばれた吉原ですが、さすがに今はそうはいかないようです。 交差点に戻って、左に曲がると蕎麦屋さんがあり、暖簾に「仲の町」とあるのは一興です。 「仲の町」という馴染みある町名はもう残っていませんが、当時吉原大門から入った通りが仲の町で、歌舞伎では中央手前に大きな満開の桜の植え込みを配し、左右には遊郭がずらりと並ぶ舞台面と決まっています。『駕釣瓶』の佐野の次郎左衛門が八つ橋を見初めるのもそうですし、『御所の五郎蔵』も『黒手組助六』もこの舞台装置の前で演じられます。 この通りにも旧町名由来の案内板があり、ここは「旧新吉原揚屋町」とあります。そしてこの通りにも現代の遊郭が並んでいます。 (2) ◆吉原神社 すこし行くと右手に見えるのは吉原神社です。この神社は廓の四隅(江戸町1丁目、2丁目、京町1丁目、2丁目)に祀られていた四つの稲荷が明治5(1874)年に合祀して建立されたとのこと。 この神社には浅草七福神の一つ弁財天が祀られていて、昔正月にこの七福神巡りをしたことを思い出します。 先ず本殿で手を合わせます。 この右には小さな社があります。 案内板を見ると、「お穴様」とあります。この言葉は初めてです。 鳥居を通った右には句碑がありますが、「万」とあるのは、浅草に生まれた俳人で劇作もある久保田万太郎のことでしょう。 また鳥居の左には、これも珍しい桜の木が一本、その由来が記されています。 「逢初め」「逢初桜」、何ともいい日本語ではありませんか! ◆吉原弁財天 お詣りをすませて出ると、すぐ近くに台東病院と公園、その左向こうに吉原弁財天があります(ここは「お酉さま」で知られる鷲神社の裏手に当ります)。 入ると、この地についての説明があります。 弁財天は奥に、壁に描かれているのは初めてです。 中には小さな琵琶を左肩からひざに置く弁財天さまが見えます。 狭い境内には、色々な石碑・句碑がたっていますが、 この角には「花の吉原名残の碑」があります。 碑文を写します。昭和35年に書かれたとはとても思えない文語体の難しい文です。 |
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ニ神出世この方 男女相聞の道開け 日本国は常世の春となれり 中の頃江戸の初世に庄司甚右衛門といへる人あり 府内に一廓の遊所を開き 名づけて元吉原といふ 明暦三年故ありて廓この地に移り 名も新吉原と改む 爾来年と共に繁榮し やがて江戸文化の淵叢となれり 名妓妍を競ひ万客粹を爭び 世俗いふ吉原を知らざるものは人に非ずと 開基以来火災を蒙ること十数度 震災又戦禍を受くるとも微動だもせさりし北国の堅城も 昭和三十三年四月一日賣春防止法の完全施行を期として 僅か一夜にして消滅し了んぬ 人為の天工を亡ぼす何ぞ甚しきや 二万七百余坪の旧地悉く分散して 辛くも瓢池一半を残すのみ 有志等がこの池畔に一基の碑を建つるは 麗人吉原が悲しき墓標の營みなりけりと云爾 昭和三十五年五月二十一日 白面青客 山路閑古 撰並書 |
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昔は遊郭楼主や関係する人たちの信仰を集めたとのことで、料亭・芸妓・幇間組合の「献木槙」の石碑や、角海老などの大店が奉納した灯籠や石垣に店名が刻まれていて往時を物語っています。 またここには、築山に観音様が祀られていますし、狭い境内にあるたくさんの石碑も興味深いですが、歌舞伎に関することのみに留めます。 ちなみに薄幸な吉原の遊女たちは葬られたのは三ノ輪の浄閑寺で、供養塔「新吉原総霊塔」が建てられています。 歌舞伎の幾つもの場面になった、そして落語にも頻繁に出てくる吉原 ― さすがに多くの見所が残っています。 |
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(2018(平成30)年7月20日) | |
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