歌舞伎の舞台名所を歩く

  坐摩神社
『新版歌祭文』


 (1)

近松半二作『新版歌祭文』(しんぱん うたざうもん)、通称「野崎村」の第一幕「大阪船場、坐摩社前の場」のあらすじです。

山家屋の佐四郎は、惚れたお染をなんとかしてこの手にと、坐摩社にお百度の祈願をしている。これを見た油屋の手代小助は、巧妙な口先で佐四郎をだまし、銭をまきあげた上、さらに悪侍鈴木弥忠太やならず者勘六と共謀して、久松が屋敷方から受け取ってきた金を奪って失脚させようと企む。何も知らぬ久松は、自分逢いたさにあとを追ってきたお染と出会い、つかの間のしのび合いをたのしんだため、小助らの企みにまんまとひっかかり、一貫五百匁の商い銀をかたり取られてしまう。
(『国立劇場 昭和54年1月公演プログラム』「あらすじ」より)

そして次の「野崎村の場」 で、小助は久松を咎人(とがにん)扱いにして、野崎村へ引き立てるように連れて行きます。

つまりこの場があるおかげで、お染と久松をとりまく状況がよくわかります。


(2)

坐摩社とは坐摩(いかすり)神社のことです。



大阪メトロ御堂筋線「本町」駅から歩いて2・3分ほどで着きます。






門をくぐると阿吽の狛犬。



先ず本殿で手を合わせます。




右からと、




左からも見てみます。




本殿の右に行ってみます。



左に目をやると、ちょっとびっくり!



境内社がいくつか並んでいます。





端から鳥居を見ます。



本殿左の社務所の前には、こんな記念碑が!








この碑の裏面には建立日が刻まれています。



この関係で「いかすり寄席」が年に2・3回開かれているそうです。

   
記念碑の前から鳥居の方を見てみます。手前にはおみくじと絵馬が掛けがありますが、



絵馬の説明があるのは珍しいです。





振り返ると、本殿の左奥にも社殿が見えます。一度突っ切って出てみると、



こちらにも鳥居があり、左には「陶器神社」とあります。




正面に稲荷神社、左が陶器神社です。







横から見ると、上部には陶製の大皿に「せともの祭」について書かれています。





ちなみに、この辺りは陶磁器の問屋や小売店が並んでいる瀬戸物町で、落語の「つぼ算」の舞台であると、桂米朝さんの『米朝ばなし』(講談社文庫, 2002)に書かれています(160-164頁)。

思いがけなく、この神社が落語と切っても切り離せない神社であることを知って嬉しくなります。


「いかすり寄席」ちらし






   
(3)

『新版歌祭文』の歌舞伎としての初演は天明5(1785)年、大阪・中村粂太郎座。

「坐摩社前の場」は昭和54(1979)年1月、国立劇場で復活上演されました。大正元(1912)年12月の帝国劇場以来とのこと。

配役は油屋の手代小助=中村富十郎、山家屋佐四郎=片岡我當、久松=沢村藤十郎、お染=坂東玉三郎。


国立劇場の伝統芸能情報館では、毎月「公演記録鑑賞会」(歌舞伎だけではありません)が開かれています。2018年の9月は「野崎村」二幕の上映で、それに先立って、この場についてのお話がある特別な会でした。



この鑑賞会、2年前くらいからでしょうか、入場は往復葉書で申し込み、多数の場合は抽選となりました。何度か外れた後、これだけはぜひ見たいと思っていたところ、嬉しいことに当選の返信葉書が届きました!



織田さんのお話は、実際舞台の上演に携わった人にしかできない大変興味あるお話でした。

毎年正月の舞台は2代目尾上松緑で明けていたが、この年は松緑が外国で親善公演に主演するため、勘三郎に代わったこと。勘三郎に話を持っていくと、共演者として玉三郎を希望したこと。『野崎村』はお光の芝居で、玉三郎がお染だけでは、と、この後に『吉田屋』で勘三郎の伊左衛門、玉三郎の夕霧という役を示して実現したことなどなど、裏話を聞くことができました。
 
舞台を観たときは、特別とは思いませんでしたが、坐摩社の場についての話を聞いて、映画を見て、大変珍しい舞台を観た幸せを感じます。この場の主役は小助で、富十郎がなんとも言えないおかしみを出していました。中村富十郎芸域の広い本当に良い役者で、大好きでした…。


平成31(2019)年4月、歌舞伎座で珍しくこの場面が出ました。『新版歌祭文』「坐間社」と「野崎村」の二幕で、配役は、小助=中村又五郎、佐四郎=市川門之助、山伏法院=片岡松之助、、久松=中村錦之助、お染=中村雀右衛門。



お読みいただきありがとうございました。

 関連で「野崎観音」もご覧ください。

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(2019年5月12日撮影)
 
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