歌舞伎の舞台名所を歩く

  生田神社 えびら乃梅
『ひらかな盛衰記』
(神戸市中央区


 (1)

文耕堂・三好松洛・竹田小出雲らの合作『ひらかな盛衰記』の四段目「神崎揚屋の場」、最後に梶原源太景季は、紅梅の枝を鎧の箙(えびら)にさして出陣しますが、なんとも風雅であります。

この場は通称「無間の鐘」と呼ばれ、梅が枝が手水鉢に願いをかけるところが大きな見せ場ですので、事典の記述を写しておきます(一部省略)。

梅が枝
愛する男にとって必要な金子を調達するため、たとえ来世は無間(むけん)地獄に落ちても、いとわぬという、激情の美女。

梶原源太景季の愛人千鳥が神崎の廓に身を沈め、梅が枝と名のる。夫源太出陣のため300両の大金が必要になり、その金策に心を砕くが、苦悩の末に手水鉢を無間の鐘になぞらえて柄杓(ひしゃく)で打ち、未来来迎地獄に落ちてもいといはしないから、300両の金が欲しいと一心に祈念する。すると、思いがとどき、二階障子の中から小判が散ってくる。

「ここに三両、かしこに五両」は、歓喜にうち震える梅が枝の心を象徴的に表現した文句。

無言で金を与えたのは源太の母延寿の慈愛だったが、むろん、梅が枝はそれを知らない。

無間の鐘は静岡県掛川の観音寺にあった鐘で、これをつくと来世で無間地獄に落ちるが、その代償として現世で富を得るという伝説があった。

元禄(1688-1704)以来歌舞伎で何度もこの題材を採り上げたが、1731年(享保16)初世瀬川菊之丞が傾城葛城の役で、手水鉢を鐘に見立てて柄杓で打つ所作事を演じたのが評判で、梅が枝はこれを受けて創造された。
(『日本架空・伝承人名事典』(平凡社, 1986)81頁)


(2)

生田神社に「箙の梅」の石碑があります。



市営地下鉄「三宮」駅で下車すると、生田神社はすぐです。


   

(生田神社パンフレットより) 



石垣に「清酒」の二文字が見えますが、すぐ右に酒の神様を祀った松尾神社があります。




二つ目の鳥居をくぐると楼門があり、その左に目指す石碑があります。




◆えびら乃梅






隣の句碑




楼門に戻り、進むと拝殿です。手を合わせてぐるっと境内を回ってみます。




拝殿の左後ろに行くと「生田神社震災復興記念碑」があります。




このすぐ近くには



またいくつもの境内社や塚などがあります。






包丁塚






再び楼門を通って生田神社を後にします。




   
(3)

『ひらかな盛衰記』の初演は人形浄瑠璃として元文4(1739)年、大阪・竹本座。歌舞伎としての初演は翌年の大阪・角の芝居。

「神崎揚屋」は一度観た記憶があるくらいで、上演記録を見ると、最近では歌舞伎座で2003年9月、それ以前は1990年9月、1974年7月とめったに舞台にかからない一幕です。

(通し狂言を建前とする国立劇場が、未だ上演していないのは不思議な気がします。)

度々上演されるのは「逆櫓」で、こちらをご覧ください。

なお本殿の後ろには「生田の森」があり、この芝居の五段目は「生田森の場」ですが、これは見たことはありません。また生田の森は度々上演をみる「熊谷陣屋」のあった場所とされます。こちらもご覧ください。
   


お読みいただきありがとうございました。

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(2017年5月15日撮影)
 
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