歌舞伎の舞台名所を歩く

  吉良邸跡
『仮名手本忠臣蔵』


 (1)

『仮名手本忠臣蔵』(かなでほんちゅうしんぐら)十一段目は「高家表門討入の場」で、「同 奥庭泉水の場」「同 炭部屋本懐の場」と続きます。

由良之助 紛う方なき怨敵師直公、この上は尋常のお覚悟あれ。

 ト由良之助、判官切腹の短刀を出し前に置く。師直おもむろにその短刀を取ると思い入れ、由良之助に切ってかゝる。由良之助それを取りあげ、御免。ト言って刺す。千崎、首をあげる。

 ウム、よくぞつかまつった。四十余人、誰れ彼れが妻を捨て子に別れ、

力弥 老いたる親を失いしも、この首一つ見んためよ。

 (『名作歌舞伎全集』、第2巻、132頁)

本懐を遂げたのは、元禄15年12月14日のことでした。


炭小屋に隠れていた吉良を見つけて「みしるし」をあげたことを詠んだ古川柳にこんなのがあります。

    むくむくと炭が動いて百年目
    炭小屋に金玉ちちみあがってる
     (『江戸芸能落語地名辞典』(上) 142頁)


なお、真山青果の『元禄忠臣蔵』に「吉良屋敷裏門」の一篇があります


忠臣蔵を題材にしたおびただしい数の浮世絵がありますが、その中から。


歌川国芳「誠忠義士肖像 大星由良之助良雄」

〔画中の歌は「武士のやたけ心をなためすゝ つかふ思ひのはるゝ弓弦」。槍に着けた札には「早野勘平一番槍討死」とあり、討ち入り前に自害した早野勘平を悼むもの〕
 (『国芳イズム 歌川国芳とその系脈』(青幻舎, 2016))



 歌川国芳「誠忠義士聞書之内 討入本望之図」 嘉永5(1852)年


 歌川国芳「忠臣蔵夜討図」 嘉永5(1852)年


 歌川国芳「誠忠義臣名々鏡 堀部矢兵衛金丸」 安政4(1857)年
 
「堀部矢(弥)兵衛金丸は、安兵衛の義父。四十七士の中で77歳の最高齢だった」
 (以上、『奇想の天才絵師 歌川国芳』(新人物往来社, 2011)より)


(2)



吉良邸跡へはJR「両国」駅で下車、回向院の前を通って、



左に進み、歩いて10分ほどで着きます。











中に入ります。正面に吉良上野介の像があり、十二月の「吉良祭」にはたくさんのお供物が添えられます。





左側の塀の前には












   
(3)

◆義士祭・吉良祭 

 毎年12月の第1土・日曜日には「元禄市」が開かれ、大勢の人で賑わいます。


















 テレビのインタヴューを受ける商店主


 この日に出会った米沢からきた人。来ることが出来てよかったと喜んでおられた。
 米沢と云えば、真山青果作『元禄忠臣蔵』の「南部坂雪の別れ」で訪ねてきた大石内蔵助に、瑶泉院が「吉良どの上野介様には、来春雪解けの頃を待って、御本家上杉さまの御国もと米沢の御城内に移って、御隠居なさるということではないか」と話す場面を思い出します。

 
 吉良邸正面手前のお稲荷さん
  
 (義士祭は2017年12月9日、他は2016年11月22日に撮影)


 (4)

『仮名手本忠臣蔵』の初演等、舞台については「忠臣蔵を歩く」をご覧ください。


 歌舞伎座 絵看板


『仮名手本忠臣蔵』では吉良上野介は高師直(こうの もろのう)、この場の師直を一度演じた八代目坂東三津五郎は、こう書いています。

  炭部屋の師直は決して大序や三段目に出た師直は出ないのが約束で、ずっと下の役者からでたものです。それは役があまり悪すぎるからで、その約束を破って私は先年帝劇でやった時に炭部屋にも出ましたが、何もすることなく本当につまらない役でした。
 (『聞きかじり見かじり読みかじり』198頁) 



お読みいただきありがとうございました。

 吉良上野介の墓所 「功運寺」 もどうぞご覧ください。

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(2018(平成30)年12月14日)
 
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