歌舞伎の舞台名所を歩く |
|
『時今也桔梗旗揚』 | |
(1) |
|
勝諺蔵(四代目鶴屋南北)作『時今也桔梗旗揚』(ときはいま ききょうのはたあげ)、通称「馬盥(ばだらい)の光秀」(単に「馬盥」とも)の「本能寺の場」。 小田春永(織田信長)は、蟄居させておいた武智光秀(明智光秀)に本能寺への出仕を命じます。 |
|
春永、あたりへ思入れ。 |
|
春永が光秀に与える恥辱はこれだけではありません。次から次へと神経を逆撫でしていきます。光秀が謀叛をおこすのも尤も思わせます。 そして中国へ出馬し久吉が下知に随へ、と命じ、 |
|
春永 其方(そち)へ太刀かたなは無益の品、其方には似合うた遊芸乱舞の道具が相応。茶の湯あるいは連歌の節、珍客あらばその席に掛け置くにはよき一軸、急いで旅宿へ持ち帰れ。 (中 略) 光秀 わが君より下され物、一軸なりと仰せあれど、箱の中には女の切髪。 春永 おぼえがあるか。 ト春永、光秀、顔見合わせ、両人ギックリ思入れ。 光秀、流浪のその砌(みぎ)り、越前の国に忍び住む。珍客来たれど饗(もてな)しの値に尽きしその折から、妻がやさしき志、わずかの鳥目(ちょうもく)得んために、根よりふッつと切髪を、旅商人に売り代なす。その節求め来りしはこの春永が間者の武士。(以下略) 光秀 スリャこの切髪は越路にて、光秀、流浪のその砌り、煙も細き朝夕の、その世渡りにわずかなる値にかえて。 ト無念の思入れにて春永と顔見合わせ、手早く切髪を箱に入れ、シャンと蓋をして、 キッと気を替え、 たしかに落手つかまつってござりまする。 |
|
すると春永立ちあがり、光秀を見て、にったりと思入れして奥へ入り、皆々も続きます。 一人舞台に残った光秀… |
|
光秀、顔を上げ、奥を見送って箱の蓋をあけ、切髪を見てホロリと思入れ。すぐに蓋をして、この箱を持ち、花道へ行き、一寸立ちどまり、色色こなしあって、じっと思入れ、気をかえて箱を持ち直すき(変換なし)の頭。早舞になり、足早に向うへ入る。キザミ、ひょうし幕。 (同上、92-93頁) |
|
(2) |
|
現在、本能寺のある場所です(「本能寺の変」当時の場所については「本能寺跡」をご覧ください)。 地下鉄東西線「市役所前」駅を下車して、寺町商店街のアーケードを入ると、すぐ左手にあります。 |
|
右手にあるご由緒です。 山門をくぐって、境内に入ると、 境内の案内があります。 お寺が保育園・幼稚園を経営するのは珍しくありませんが、ホテルを経営するのは初めてです。 右手に「大寶殿」と額にある宝物殿です。 突き当りに本堂が建っています。 右横から見てみます。正面から見るのとは違った印象を受けます。 塔頭の前に、「信長公御廟所」と矢印があるので行ってみます。 突き当りに見えるのが廟所で、 「信長公廟」とあります。 この廟の説明書です。 後ろには、「信長公350年」の「記念碑」がたっていて、 供養塔を廟の右側から、 左側からも見てみます。 廟の正面右に見える大きな木は、「京都市指定保存樹 イチョウ」(平成16年指定)で、「信長廟のそばに育つこのイチョウは、本能寺の変の後、この場所に移植したものと伝えられています。「天明の大火(1788年)」で市中が猛火に襲われたとき、イチョウから水が噴き出し、木の下に身を寄せていた人びとを救ったという言い伝えから、「火伏せのイチョウ」として大切に守られています」とあります。 秋の日差しをいっぱいに浴びて輝いています。何とも言えぬ色です。 ちなみに、廟の右にも何かあります。 江戸後期の画家・浦上玉堂親子のお墓です。 玉堂は文人画で知られ、展覧会でも時々見たことがありますが、手持ちの図録からの一枚を。 浦上玉堂「山紅於染図」文化(1804-18)期 「70歳代に玉堂の絵画世界は一層豊かに完成されていく。「山紅於染」(山は染むるよりも紅なり)と題された本図は、連なる山々とその前景に林立する樹木の紅葉するさまを、すべて玉堂の内部に葛藤し醸成した感覚によって描き出す。」 (「祝福された四季」展図録(千葉市美術館, 1996)187頁より) 玉堂のお墓で手を合わせて、河原町門から出て、本能寺を後にします。 |
|
(3) |
|
『時今也桔梗旗揚』(ときはいま ききょうのはたあげ)の初演は文化5(1808)年、江戸・市村座。 昭和57(1982)年9月、歌舞伎座で初めて見ました。「本能寺の場」「愛宕山連歌の場」の二幕。光秀は9代目松本幸四郎(現・2代目白鸚)。幸四郎は『演劇界』10月号の表紙を飾り、この舞台写真も脳裏に刻まれています。 この舞台の劇評の最後の部分です。 |
|
それから、切髪を見て気がつくところで蓋で箱のふちを打つ音は、先代吉右衛門が何とも微妙な音をさせたのを、思い出す。そういうへんに、上等な歌舞伎の香気があるのだ。 特に他の役々にいうこともないが、最後にかけつけた吉右衛門の四王天但馬守が、光秀の太刀を拭うところは、兄弟の共演という、見ていて嬉しくなる幕切れであった。こういう時にこそ、掛け声がひいきからは、かけたくなるのだろう。 (戸板康二・『演劇界』昭和57年10月号、25頁) |
|
なお『演劇界』では平成21(2009)年10月号で、『時今也桔梗旗揚』 を「巻頭特集」しています。「南北が描く謀叛までのプロセス」(金子健)、「光秀、そして彼をめぐる人々」(竹田真砂子)の二編が、豊富な写真と共に載っています。 この芝居、まだ国立劇場で上演されていないのは不思議な気がしますが、劇場はどこであれ、また観たくさせる一本です。 |
|
歌川国芳「十二代市村羽左衛門の小田春永」 |
|
「この作品は天保11(1840)年7月25日より、市村座で上演された『御贔屓握虎木下(ごひいきやっこのきのした)』に出演した十二代市村羽左衛門の小田春永を描いたもの。この人名は織田信長になぞらえている。 性格の激しい春永ではイメージが合わないと思われるが。小忌衣(おみごろも)を着て微笑む御大将ぶりは品位を備えており、国芳の役者絵の中でも上位にランクされる優れた作品といえる。」 (『国芳イズム 歌川国芳とその系脈』(青幻舎, 2016)80番) |
|
関連で次もご覧ください。 本能寺址 小栗栖と明智藪 坂本城址 ちなみに平成17(2005)年11月、国立劇場で『絵本太功記』が4幕5場の通し狂言として上演(第246回歌舞伎公演)されたときに、珍しい「本能寺の場」(6月2日)が出ました。 |
|
お読みいただきありがとうございました。 「歌舞伎の舞台名所を歩く」 HOME |
|
(2018(平成30)年9月13日) | |