歌舞伎の舞台名所を歩く

  本能寺
『時今也桔梗旗揚』


 (1)

勝諺蔵(四代目鶴屋南北)作『時今也桔梗旗揚』(ときはいま ききょうのはたあげ)、通称「馬盥(ばだらい)の光秀」(単に「馬盥」とも)の「本能寺の場」。

小田春永(織田信長)は、蟄居させておいた武智光秀(明智光秀)に本能寺への出仕を命じます。

  春永、あたりへ思入れ。

春永 オゝ、幸い幸い、蘭丸、あれなる馬盥の花活け、これへ。
蘭丸 ハッ。

  ト蘭丸、件の馬盥お花と轡を取り、近習に水をあけさせ、馬盥を春永の前へ出す。

春永 蘭丸、この器、光秀へ。
蘭丸 ハッ。

  ト合点の行かぬ思入れにて、光秀の前へ置く。

春永 こりゃ光秀、盃くれるぞ。

  ト光秀、心得ぬ思入れ。

光秀 アノこの器を拙者めへお盃とな。ムウ。
春永 いかにも汝へくれるには、分相応のその馬盥。 
光秀 ヤ。
春永 その方が望み通り、馬に与えるその盃、鼻づら差しこみ舌打ちして、その盃をずっと干せ。

  ト光秀、無念の思入れ。
 
  (『名作歌舞伎全集』第9巻、88頁)

春永が光秀に与える恥辱はこれだけではありません。次から次へと神経を逆撫でしていきます。光秀が謀叛をおこすのも尤も思わせます。

そして中国へ出馬し久吉が下知に随へ、と命じ、

  春永 其方(そち)へ太刀かたなは無益の品、其方には似合うた遊芸乱舞の道具が相応。茶の湯あるいは連歌の節、珍客あらばその席に掛け置くにはよき一軸、急いで旅宿へ持ち帰れ。

             (中 略)

光秀
 わが君より下され物、一軸なりと仰せあれど、箱の中には女の切髪。
春永 おぼえがあるか。

  ト春永、光秀、顔見合わせ、両人ギックリ思入れ。

光秀、流浪のその砌(みぎ)り、越前の国に忍び住む。珍客来たれど饗(もてな)しの値に尽きしその折から、妻がやさしき志、わずかの鳥目(ちょうもく)得んために、根よりふッつと切髪を、旅商人に売り代なす。その節求め来りしはこの春永が間者の武士。(以下略)

光秀 スリャこの切髪は越路にて、光秀、流浪のその砌り、煙も細き朝夕の、その世渡りにわずかなる値にかえて。

  ト無念の思入れにて春永と顔見合わせ、手早く切髪を箱に入れ、シャンと蓋をして、
  キッと気を替え、 

たしかに落手つかまつってござりまする。

すると春永立ちあがり、光秀を見て、にったりと思入れして奥へ入り、皆々も続きます。

一人舞台に残った光秀…
 
  光秀、顔を上げ、奥を見送って箱の蓋をあけ、切髪を見てホロリと思入れ。すぐに蓋をして、この箱を持ち、花道へ行き、一寸立ちどまり、色色こなしあって、じっと思入れ、気をかえて箱を持ち直すき(変換なし)の頭。早舞になり、足早に向うへ入る。キザミ、ひょうし幕。 (同上、92-93頁)


  
(2)

現在、本能寺のある場所です(「本能寺の変」当時の場所については「本能寺跡」をご覧ください)。



地下鉄東西線「市役所前」駅を下車して、寺町商店街のアーケードを入ると、すぐ左手にあります。
   


右手にあるご由緒です。



山門をくぐって、境内に入ると、



境内の案内があります。

お寺が保育園・幼稚園を経営するのは珍しくありませんが、ホテルを経営するのは初めてです。



右手に「大寶殿」と額にある宝物殿です。



突き当りに本堂が建っています。



右横から見てみます。正面から見るのとは違った印象を受けます。



塔頭の前に、「信長公御廟所」と矢印があるので行ってみます。



突き当りに見えるのが廟所で、



「信長公廟」とあります。



この廟の説明書です。



後ろには、「信長公350年」の「記念碑」がたっていて、



供養塔を廟の右側から、



左側からも見てみます。




廟の正面右に見える大きな木は、「京都市指定保存樹 イチョウ」(平成16年指定)で、「信長廟のそばに育つこのイチョウは、本能寺の変の後、この場所に移植したものと伝えられています。「天明の大火(1788年)」で市中が猛火に襲われたとき、イチョウから水が噴き出し、木の下に身を寄せていた人びとを救ったという言い伝えから、「火伏せのイチョウ」として大切に守られています」とあります。



秋の日差しをいっぱいに浴びて輝いています。何とも言えぬ色です。




ちなみに、廟の右にも何かあります。



江戸後期の画家・浦上玉堂親子のお墓です。





玉堂は文人画で知られ、展覧会でも時々見たことがありますが、手持ちの図録からの一枚を。


 浦上玉堂「山紅於染図」文化(1804-18)期

 「70歳代に玉堂の絵画世界は一層豊かに完成されていく。「山紅於染」(山は染むるよりも紅なり)と題された本図は、連なる山々とその前景に林立する樹木の紅葉するさまを、すべて玉堂の内部に葛藤し醸成した感覚によって描き出す。」
 (「祝福された四季」展図録(千葉市美術館, 1996)187頁より)


玉堂のお墓で手を合わせて、河原町門から出て、本能寺を後にします。




(3) 

『時今也桔梗旗揚』(ときはいま ききょうのはたあげ)の初演は文化5(1808)年、江戸・市村座。

昭和57(1982)年9月、歌舞伎座で初めて見ました。「本能寺の場」「愛宕山連歌の場」の二幕。光秀は9代目松本幸四郎(現・2代目白鸚)。幸四郎は『演劇界』10月号の表紙を飾り、この舞台写真も脳裏に刻まれています。

この舞台の劇評の最後の部分です。

  それから、切髪を見て気がつくところで蓋で箱のふちを打つ音は、先代吉右衛門が何とも微妙な音をさせたのを、思い出す。そういうへんに、上等な歌舞伎の香気があるのだ。

特に他の役々にいうこともないが、最後にかけつけた吉右衛門の四王天但馬守が、光秀の太刀を拭うところは、兄弟の共演という、見ていて嬉しくなる幕切れであった。こういう時にこそ、掛け声がひいきからは、かけたくなるのだろう。
(戸板康二・『演劇界』昭和57年10月号、25頁)

 
なお『演劇界』では平成21(2009)年10月号で、『時今也桔梗旗揚』 を「巻頭特集」しています。「南北が描く謀叛までのプロセス」(金子健)、「光秀、そして彼をめぐる人々」(竹田真砂子)の二編が、豊富な写真と共に載っています。

この芝居、まだ国立劇場で上演されていないのは不思議な気がしますが、劇場はどこであれ、また観たくさせる一本です。

   
歌川国芳「十二代市村羽左衛門の小田春永」

  「この作品は天保11(1840)年7月25日より、市村座で上演された『御贔屓握虎木下(ごひいきやっこのきのした)』に出演した十二代市村羽左衛門の小田春永を描いたもの。この人名は織田信長になぞらえている。

性格の激しい春永ではイメージが合わないと思われるが。小忌衣(おみごろも)を着て微笑む御大将ぶりは品位を備えており、国芳の役者絵の中でも上位にランクされる優れた作品といえる。」
 (『国芳イズム 歌川国芳とその系脈』(青幻舎, 2016)80番) 


関連で次もご覧ください。
   本能寺址
   小栗栖と明智藪
   坂本城址


ちなみに平成17(2005)年11月、国立劇場で『絵本太功記』が4幕5場の通し狂言として上演(第246回歌舞伎公演)されたときに、珍しい「本能寺の場」(6月2日)が出ました。



お読みいただきありがとうございました。

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(2018(平成30)年9月13日)
 
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